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「なりきり」はなぜ擬似恋愛なのか

女の子ウェブの隠し味、「なりきり」の秘密に迫る! - ねとぽよ

先日の「なりきり」記事への反響について - ねとぽよ

この2つの記事を読んで、ふとなぜ「なりきり」が擬似恋愛になるのか、考えてみた。

 

それは「なりきり」も恋愛も、もある種の「役割への期待」に答えながらコミュニケーションをしていくものであり、かつそのコミュニケーションの履歴は他には無いユニークネスを持つ(と当事者は思い込む)からだと思う。

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なりきりは演劇と普通のチャットの中間的な存在だ。演劇が決められたセリフを台本通りに発するのに対し、チャットは台本などなく、アドホックな言葉のやりとりが続く。なりきり、特になりきりチャットの発話は、事前に相手が発した言葉への応答でもありつつ、自分がなりきっている役割に向けられた相手からの期待にも応えている。相手の言葉と、相手の期待との交点に自分の言葉があるのだ。

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同様に、恋愛もまたなりきり(チャット)のように、相手の発話に応えつつ、同時に恋人としての役割への期待にも応えている。またこの図には書いていないが、発話者は相手の期待に応えられたことを相手の表情や言葉から読み取る。それがコミュニケーションのモチベーションを更に上げる。

 

相手の言葉と、役割への期待に応える。うまくそれに応えられたことが、コミュニケーションをさらにスパイラルさせていく。この相互認識の渦は、得てしてそこで生まれたコミュニケーションが他には無いユニークなものであることを、錯覚させる。この錯覚が、「なりきり」を、擬似恋愛にさせているのではないか。

 

冒頭の記事には他にも「創作的恋愛」の話や、ゲームとの類似性など様々な視点が含まれている。また恋愛との類似だけでなく、「人狼」などにも応用出来るかもしれない。

 

女の子ウェブの隠し味、「なりきり」の秘密に迫る! - ねとぽよ

先日の「なりきり」記事への反響について - ねとぽよ

 

Webはコンテンツとプラットフォームがすごく近い。紙は遠い。という話。

こんな話である。

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Webはコンテンツとプラットフォームがすごく近い。紙は遠い。

紙の本や雑誌を作る過程(企画・執筆・編集・印刷・製本……)とそれらを売る過程(流通・書店での販売)がきっちり分かれている。当たり前だと思うかもしれないが、これらをウェブに当てはめてみると、そうでもない。本をコンテンツ、売り場をプラットフォームと呼び替えると、Webメディアはコンテンツとプラットフォームがかなり接近していることがわかる。コンテンツを作った人たち(もちろん社内で職種はわかれているけど)が、そのまま自サイトのトップページその他でコンテンツを見せる。Webメディアはコンテンツでもあり、プラットフォームの要素も兼ね備えている。もちろん、Google を始めとする検索エンジンや、TwitterFacebookといったソーシャルメディアからのアクセスも大量にあるため、すべてのアクセスを自らのプラットフォームで生み出しているわけではない。とはいえ、コンテンツ(本)とプラットフォーム(書店)が分かれているリアルの世界に比べれば、Webメディアはコンテンツとプラットフォームがとても接近している。以前、インフォバーンの小林弘人氏が『新世紀メディアロン』で夢想したのは、コンテンツとSEO=検索エンジンというプラットフォームへの最適化の融合だった。

年末に、Webと紙の違いをテーマにした久谷女子のトークイベントが開かれた。そこで @kanose さんが、作品をコンテンツと呼ばれることについて、こんな違和感を述べていた。


僕はまさにWebメディアでコンテンツとプラットフォームの間を結ぶような仕事をしている。ので、気持ちは分からなくはない(雑誌編集者出身の人も社内に多い)のだけど、上記のようにWebはコンテンツとプラットフォームが近いので、どうしても見せ方=プラットフォーム上でいかにアクセスを生むか、から逆算してモノを見たり作ったりしがちだ。これはもう、仕組み上そうなっているので仕方ない。これはコンテンツへの軽視ではなく、使っている語彙(紙―書店/コンテンツ―プラットフォーム)が紙の世界とWebの世界では違うのだ、程度で理解して貰えると嬉しいなあと思っている。

コンテンツとプラットフォームの融合

ところで冒頭に挙げた三角形では、コンテンツ―プラットフォームの横軸の他に、商業―同人の縦軸も入れている。商業と同人の差はコンテンツの内容や質もあるが、商業用の流通経路に乗るかが特に決定的な差になる。とらのあななど同人コンテンツを専門的に扱う業者もあるが、基本的に商業誌と同人誌は流通ルートが異なるし、後者の方が小規模だ。となると同人誌は自前でプラットフォームを持つか、コミケなどの即売会に頼ることになる。

紙の同人誌は、それでも物理的な制約があって、自前のプラットフォームはなかなか持てない。専門店に委託するか、即売会に参加するかぐらいだろう。これが電子書籍で同人誌を作ると話が変わってくる。発送や在庫管理といった紙媒体特有の流通コストがないので、自前でぷらっとホームを持つのが(紙よりは)容易だ。

ちなみに電子書籍で同人誌を作る際は、プラットフォームは出来れば自前で持った方がいいと思っている。あまり有用なプラットフォームがまだ無いし、その上捌けた数に関わらず一律に手数料をハネられるものが大半なので、作り手側の旨味がとても少ない。

自前でプラットフォームを持った同人誌はコンテンツとプラットフォームが限りなく近づいたメディアである。もはやメディアなのかなんなのか分からないが、とにかく先の図で言えば下の頂点にさなり近いところにいる。問題はわざわざコンテンツとプラットフォームで分業していたのをくっつけて、本当にその同人誌は数が出るのかというところなのだけど、長くなったのでそれはまた後で。

本当のGooglezon

焦点:米アマゾンとグーグル、2013年は「衝突」不可避

Amazonが顧客のデータ販売で広告ビジネス=Googleの領域に攻勢をかけようというのに対し、GoogleもモバイルECの分野でAmazonに仕掛けている、という記事。

お互いにWebを入り口としながら、Amazonはリアルの流通を大規模に整備し、GoogleはWebでの流通を大規模に整備してきたのがこの10年だった。真逆の道を歩んできたはずの両者がこうした形でぶつかるというのは、非常に面白い。最終的に彼らが衝突するのは、モバイル端末での分野だ。つまりオンラインとオフラインの境目に存在するのがモバイル端末ということだろう。

(デスクトップPC的な意味での)PCは、場所が固定される。従って利用する時間についても程度オンオフをはっきりせざるを得ない。一方モバイル端末は場所を固定しないので、利用する時間を細切れにできる。PCしかなかった頃は、朝オンラインになって、学校や会社に出かけて、自宅に戻ってきてまたオンラインという風に、オンラインとオンラインの間の時間が空いていた。モバイル端末は通勤・通学中も・昼休みも・帰宅中もオンラインにしてくれる。オン/オフの時間差がひたすら微分されていくのだ。その差が極限までゼロに近づき、オン/オフの境目を引く意味がなくなった時、本当の「Googlezon」がやってくるのかもしれない。


EPIC 2014 日本語字幕版

ニコニコ動画とこれからのインターネットと

党首討論ニコニコ動画で見た。これが日本のインターネットのターニングポイントだ!とは言わないが、もし将来歴史の教科書にインターネットの歴史が載るとすれば、その中に刻まれるであろう出来事なのかなと思う。テレビが持つ公共性は凋落の一途をたどっている。リビングでテレビを見る中学生より、親のお古のスマホからwi-fiでニコニコを見る中学生の方が多いかもしれない。そういう意味で、今回の試みは後々に参照されるべき事例なのだろうと思う。

政治はその性格上、公共性を無理やり作り出す。公共的なものが政治なのではなく政治の足あとが公共なのだ。自民党と民主党ニコニコ動画をめぐるプロレスがこういう形で決着したということは、ネットの政治解禁は加速度的に進んでいくのだろう。どういう道筋になるかは別として。

ネットのこれから

インターネットの世界が変わろうとしている。Web2.0以降、ネットの世界がやってきたことは煎じ詰めればコミュニケーションだった。アテンションエコノミーという言葉もあったが、結局コミュニケーションの形式(作法)と内容(ネタ)が異常な早さで使い捨てられていったのがこの10年だったと言える。

切込隊長ことやまもといちろう氏と、楠正憲氏の対談を読んだ。面白かった。

やまもといちろう×楠正憲「ネット業界“ソーシャルの次”を本気で考える」(前編)~楽しさだけを突き詰めても先はない - エンジニアtype

欲求とリスクを知って壁を越えろ~やまもといちろう×楠正憲「ネット業界“ソーシャルの次”を本気で考える」(後編)

「楽しさ」だけでやっていたときは、良くも悪くも世間はネットに注目しなかった。せいぜい暇つぶしニュースのネタにする程度。そうこうしているうちにソシャゲ(というかガチャ)がPCからガラケーに持ち込まれ、ソーシャルゲーム業界が外の「社会」と無理やり繋がらざるを得なくなってしまった。ところがプレイヤーが圧倒的に若い。端的に言えば政治的な力を持たない。楽しさベースで、社会的なポジションを拡大せぬうちに、鬼子が外に出されてしまった。

個人的にはここにきてやはり日本語というのが壁になっているのだなあという実感がある。上の記事にもプラットフォームという言葉がよく出てくるが、結局プラットフォームを目指すのであれば英語圏のサービスが最も有利だ。LINEもアジアでは強いと言われるが、アジアでNo.1のメッセージングアプリはWhatsAppだ。LINEではない。VCから資金調達をする仕組みが整い、マーケティングの手法もほぼ大筋は固まり始めてきた状態で、あとはどれだけグローバルに展開してユーザーを捕まえられるかになる。やまもといちろう氏が「LINEみたいのはもう出てこない」といっていたが、他にもAngry Birdsなどもそうしたプラットフォームの普及期のスキマを縫って勝ち名乗りを上げたアプリの一つだ。すでに勝負は巨人と巨人の戦いになりつつある。

プラットフォームの取り合いは非常に厳しい。だったらその上に育つ文化の方に目を向けたほうがいいんじゃないか、というのが素朴な今の想いだったりする。ニコニコ動画はドメスティックな文化のプラットフォームになろうとし、なったという点でその先鞭をつけたが、もうそろそろ嫌儲という概念も薄れてきたはずなので、そろそろネット上で文化とお金が回る仕組みがもっと整ってもいい頃なのではないかなと思っている。

で……例によって

毎度毎度宣伝で申し訳ないのですが、↑のようなことを「文化先行型」というタームでくくって、僕やねとぽよ実質編集長稲葉ほたてが『ねとぽよ 女の子ウェブ号』で議論をしています。ぜひ。

『ねとぽよ 女の子ウェブ号』紹介ページ

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これはものづくりの本ではない―クリス・アンダーソン『MAKERS』感想

MAKERS―21世紀の産業革命が始まる

MAKERS―21世紀の産業革命が始まる

ものづくりのプロセスがデジタル化されることで、製造業の「民主化」が起こる。大企業が製造と流通を支配し、大量生産大量流通に合う製品だけが市場に出回っていた時代が終わる。これからはアイディアとやる気をもったアマチュアたちが、大企業が取りこぼしたニッチ分野をカバーするのだ――これが本書の大まかな主張である。

大事なのは3Dプリンタではなく、クリエイターのコミュニティ

最近、3Dプリンタや3Dスキャナが注目されている。本書でもそれらは取り上げられているが、これらはモノのデジタルデータ(アンダーソンふうに言えば「ビット」)と実際のモノ(同じく「アトム」)のゲートキーパーにあたる。逆にいえばそうしたビットとアトムをスイッチする以上の役割は持たない。重要ではあるが、本書で言われる「製造業の民主化」の主役はこれだけではない。ものづくりのプロセスがデジタル化すると、資金調達・マーケティング・製造先の委託・製品の改善までもが変わるという。kickstarterを使えば、アイディアに人々が予め「予約」することで、製造資金を先周りして獲得できるし、どれくらいの需要があるのか、市場予測もできる。完成したデジタルデータを実際のモノにするのが難しければ、データをアップすると登録されている各メーカーが見積りを出してくれるサイトがある。実際にできた試作品をネットにアップすると、それを欲しがっている/作りたがっている人々のコミュニティで議論が始まる。時には誰かが製品を改善してくれる。モノが規格化されたデータになることで、誰もがそのデータにアクセスでき、形にしたり意見を述べたり改善したりすることができる。これが「民主化」の真髄である。

ここまで見ればわかるように、本書が「製造業の民主化」を訴える拠り所としているのは、インターネット上に広がるクリエイターのコミュニティと、それをアイディアとマッチングさせるシステムである。基本的に本書はクリエイターのコミュニティがいかにすごいか、そしてそのコミュニティとアイディアがうまくマッチすればどんな面白いことがあるのか。その話しかしていない。なので先にも書いたように、3Dプリンタやスキャナが大事なのではなく、(前著まででも大活躍した)意欲のあるクリエイターの集団が大事なのである。これはものづくりの本ではなく、やはりインターネットの本なのだ。

製造業とクラウドを結びつけるのはミスリーディングでは?

クリス・アンダーソンは新しい概念は作らない。新しい概念を広める力がある。その文章は(翻訳の力もあるが)とても魅力的な一方、強引な部分もやや見られる。例えば、デジタルツールからワンクリックで試作品の発注ができる仕組みを指し、「製造業は、いまやウェブのブラウザからアクセスできる「クラウドサービス」のひとつとなり、(中略)グローバルなサプライチェーンが「規模にかかわらず利用できる」ようになった」と述べている。これはクラウドのイメージをピンぼけさせたまま使っているに過ぎない。自社でサーバサイドの設備を持つと、ピークタイムとオフタイムの稼働率の違いが大きくなり無駄が大きい。そこで様々な地域から顧客を集めて稼働率が安定するように作られた外部のサービスを利用するメリットが生まれる。逆にいえばサーバという、汎用性がありかつスケールメリットを生みだせる設備だからこそクラウドという形態に意味がある。ところが3Dプリンタは汎用性はあるがスケールメリットがない。3Dプリンタはインクコストが多分にかかるため、限界費用は逓減しない。金型をベースにした従来の製造ラインのほうが、スケールメリットはある。ただ汎用性はないので稼働していない時に個人のオーダーをぱっぱと作るといった芸当はできない。製造業とクラウドを結びつけるのは、ミスリーディングだ。

宣伝

ちなみにこの本は先日発売されたkindle Paperwhiteで読んだ。kindle本はePubDRMをかけた、改造版でできている。ePubといえば、先日ウェブ販売が開始された『ねとぽよ 女の子ウェブ号』もePubで出ている。詳細は以下で御覧ください。
『ねとぽよ 女の子ウェブ号』ウェブ販売開始のお知らせ - ねとぽよ

こじらせ女子とは何か

こじらせとは、ワナビーと構造的に対になる言葉である。

過剰供給される「ありえるかもしれない自分」

人は様々な「物語」を生きる。消費社会はメディアを通じて私達に様々な可能性を見せる。時に人はそうした外部の物語が先行して、行動よりも願望が先回りしてしまう。ワナビーとは、「ありえるかもしれない自分」の亡霊に惑わされ続ける人のことだ。一方「こじらせ」はその逆である。いかなる「物語」も拒否し、生き方に迷う人々を指す。ワナビーもこじらせも、「ありえるかもしれない自分」を上手くキャッチできていない人種である。方向性がポジティブなのかネガティブなのか、ワナビーとこじらせの差はその違いにすぎない。

自分で自分固有の人生を回せない=自分の「物語」を持てない。それは今に始まった現象ではない。資本主義以前の世界で、人々の物語は決まっていた。生まれた瞬間、たいがい人々の前に見えないレールが敷かれていた。資本主義が浸透した後も、しばらくはレールが身分から階級へと名前を変えたに過ぎなかった。ところが資本主義が高度化すると、階級すらも取り払われ始めた。資本主義において基本的に固定化は望まれない。人々はレールを外され、鎖を解かれた。代わりに現れたのはメディアによる「物語」の過剰供給だった。わたしたちに「個性」を押し付けたのは教育ではない。広告である。資本は市場をもとめて、ありとあらゆるメディアの割れ目=広告をつたい、人々に「ありえるかもしれない自分」=物語を見せる。ファッションから就職先まで、あらゆるところで人々は「ありえるかもしれない自分」を夢想させられ、「ありえたかもしれない自分」の残像を振り払いながら生きていく。決して手の届かない物語を掴まされても、誰も責任は取ってくれない。何が手の届く物語なのかわからず、手を伸ばさないことにしたしても、同じ事だ。物語に躍らされる者、物語を忌避し続ける者。大平原に放り出され、地図とコンパスを自ら用意できるものは、決して多くはない。

インターネットの影響

インターネットの登場はこれを加速した。物語を見せるのは広告だけではない。人々が自ら物語を語りはじめたのだ。「ありえるかもしれない自分」が、ブログ・Twitter・まとめサイト、あらゆるところに跋扈し始めた。インターネットを通じて、断片化された他人の人生を見ない日はもはやない。自分よりずっと実力が上の人間の生き様をどっと見せられた時、その道を諦める人もいるだろう。その逆もあるだろう。インターネットは、羨望と忌避を大量に生み出した。

付随してもう一つインターネットは問題を生んだ。名付けだ。そのようにワナビー的/こじらせ的に人生を送る人々は昔からいた。しかしインターネットはそうした人々に「ワナビー/こじらせ」と名前をつけた。それは「ワナビー/こじらせ」を自称する者、他人を「ワナビー/こじらせ」呼ばわりする者の2つを生み出した。結果、それらの言葉が急速に普及し、意味が変質した。元来「ワナビー/こじらせ」と呼ばれる人=ネイティブワナビー/ネイティブこじらせと、その名前が広まった後、再帰的に呼ばれるようになった人では、もはやその内容が異なってくる。

雨宮まみ『女子をこじらせて』を出すまでもなく、特にこじらせ的な生き方は女性に多いように思う。それは若い時の女子的な生き方のテンプレートが極めて窮屈なこと、いっぽうで社会に出た後のロールモデルが極めて希薄なこと、このコントラストの強さが一因なように思う。とはいえその事情は個々人でだいぶ違うはずだ。特にインターネットの影響については年代によって差がある。





続きは「ねとぽよ 女の子ウェブ号」で!

ということで文フリの季節がやって参りました。宣伝のお時間です。

11/18開催の文学フリマで頒布される『ねとぽよ 女の子ウェブ号』では、大学生から社会人まで、実際の「こじらせ女子」の声を集めて、彼女たちがどのように生き、ネットを使いそれがどのような影響を与えているのかを記録しています。担当は象徴編集長・斎藤大地。その他のコンテンツは以下をご覧ください。

女の子ウェブ号 | ねとぽよ ねっとぽよくはへいわしゅぎをひょーぼーします

松谷創一郎『ギャルと不思議ちゃん論』

ギャルと不思議ちゃん論: 女の子たちの三十年戦争

ギャルと不思議ちゃん論: 女の子たちの三十年戦争

ギャルと不思議ちゃんの系譜

「ギャル」と「不思議ちゃん」の系譜を追うことで、(若い)女性の文化史を紐とく。というよりも、女性が(積極的/消極的問わず)選択するスタイルの歴史が網羅的に書かれている。

基本的には<コ>ギャルの歴史を追うことで本書は進んでいく。80年代、若い女性が選ぶスタイルは「少女」だった。しかし90年代以降、そうした「少女」に対する社会のまなざし・欲望を逆手に利用する<コ>ギャルが登場する。彼女たちは自らに降りかかる性的なまなざしを、欲望を、期待を利用し、生きるための軸としていく。著者は彼女たちのそうした姿を「メタ少女」呼ぶ。

もちろん、こうした振る舞いは「少女」に期待していた一部の男性からは反発を受けるのだが、その後も<コ>ギャルは分化と近接領域との接近を繰り返す。ガングロ・マンバといった派生形を生みだし、またコンサバやオタクとの接近も2000年代以降、行われるようになる。

いっぽうで「不思議ちゃん」は常に多数派に対するカウンターとして存在する。カウンターであるため、著者いわく「いつの時代も明確な像を結ぶことはなく」、明確な変遷を遂げていない。ギャルが渋谷を拠点とするのに対し、不思議ちゃんは原宿が情報や流行の根源地となる・「個性」を強調する・女性誌でいえばCUTIEがその系譜に当たる、などの特徴はあるものの、確たる芯があるわけではない。戸川純・しのはらともえ・きゃりーぱみゅぱみゅといったモデルの系譜からも、そうした曖昧さが見てとれる。

ネットと女子の関係

個人的に気になるのは、こうした女性のスタイル選択とネットの関係である。ネットは何につけても「名指し」を行う。メンヘラ・非モテ……ファッションに限らずあるスタイルについて、類型化し、名指しを行う。CGM、つまり閲覧者と発言者が極めて、近接的である状態ではこの類型化の作業はコミュニケーションを円滑にする上で非常に重要となる。

名指しは、スタイルのクラスタリングを加速する。それは簡易な類型化を伴う。つまり「**であればxxというスタイル」「★★であればnn」という、類型化である。それはそのスタイルを選択することの障壁を下げる。またソーシャルメディアの普及によって、名指されたクラスタが広まる、つまり意識され再帰的に選択されるサイクルも縮まった。

これはスタイルの分化を促進する。逆にいえば、スタイルが使い捨てられる時間も短くしてしまう。そして、女性が常に何らかのスタイルに属さざるを得ないことを、女性自身が自覚する機会も増やす。何らかのスタイルを選択するというゲームから降りれない。降りたとすれば、降りたというポジションをあてがわれる。そのボリュームが大きければ、マーケティングの対象にされる。男がたとえ彼女らを見逃そうとも、資本は彼女らを見逃さない。これはネットの影響がなくても言えることだが、しかしネットはそのサイクルを加速する。メタゲームを加速する。

メタゲームの細分化と加速、そして何よりそうしたメタゲームから降りるという選択肢がないこと。そうしたことをネットが女性に自覚させる。つらぽよな時代である。

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http://netpoyo.hatenablog.jp/entry/2012/09/24/231736