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理解についての考察


たとえば「雨が降る」という言葉は、それ自体にその現象そのものの適切な説明があるわけではない。
「雨」とは我々があくまで便宜上つけた言葉であって、正しくは水だろうし、その水という言葉もH2Oという化学式に還元できる。そしてその化学式も、結局人間が名づけたものなのだ。
水が蒸発して雲が出来て、冷やされて地上に落下する。雨が降るという言葉を簡単に分解するとこうなるし、また学術的な用語を使えばおそらくさらに複雑な文章になるだろう。だが本当にさらに厳密な意味でこの言葉の分解を行えば、つまり便宜上の用語に左右されない、事物の本質の記述によっての分解は可能なのだろうか?

もし可能だとすれば、我々は言葉という概念を失う。
我々が目に見えるか耳に聞こえるかする以上、それは言葉ーここでは絵など表意記号としての言葉もふくむーを介している。そうしなければ、我々は理解ができない。だが、この考察において主眼とされたのは便宜上の表現によらない本質の理解。だとすれば、結局それを突き詰めた結果は、破綻ともいうべき矛盾を抱えることになる。

それは、我々の理解の限界は、言葉の限界に等しいことを意味している。
そして、その言葉の限界を穴埋めするために作られたのが、神という概念ではないか。
理解できない事物について、それは言葉で表現が出来ない。よってそれらを表象的に説明するための一種の記号として、神という概念が生まれた。

現在、人間が見知るところにおいておおよその「理解できない事物」というのは消えたかのように思われる。神の領域は、人間の知識の領域にとってかわられた。
だが、我々がこのまま知識の領域を漸進させ続け、逆にどこかで言葉の限界を迎えたとき、知識の領域の侵攻は止まる。

あと2000年、3000年経ったとき、我々の言葉はどこまで拡大し、知識の拡大を支えているのだろうか?それともすでに、ある段階で我々は知ることをやめ、停滞と信仰の歴史を送っているのだろうか。

答えは、誰が知っているのだろうか。