絶倫ファクトリー

生産性が高い

ふと思いついた


これ読んでみて思ったこと。東浩紀が、昨今の「感動系」の流行について反駁不可能性の観点から論じていた(情報が氾濫し、あらゆる言説に反駁可能性が生じつつある今、感動した/しないという完全に個人の感情にゆだねられた反駁不可能な言説に人々が向かう傾向にある)けど、ここに個人の代替可能性/不可能性の話も混ぜてみると面白いんじゃないかとか。

服屋で気に入った服を選んで買うのも、iTuneから音楽をiPodに落とす作業も、mixiで興味のあるコミュニティに参加するのも、結局みんなは他人の目を意識しつつわりと「趣味の良い物」を選ぶ傾向にある。「自分はこんなセンスしてるんです」ってことを表す一種の記号なんだ。逆に言えば、わりと「趣味の良い物」にカテゴライズされるものならまぁ何でも良いわけ。趣味良いね、センスいいねと言われると思われる物のカテゴリの中から、さらに同じことを言われるための組み合わせを探す。そのカテゴリ内、その組み合わせなら、個別の服なり音楽なりは何でもかまわない。記号なんだもの。すごい代替可能性の高い物だと言える。

こうして考えてみると、僕らの生活の中で代替可能性を持つものは大量にある。てかほとんどがそう。そして携帯電話が普及した今、「自分」すら代替可能性を持っている。携帯のメールで交わされるコミュニケーションは、別にメールを送ってきた相手が本当にその本人でなくてもかまわない。「その本人のメールアドレス」から送られてきたメールなら、それで事足りるのだ。たとえ本人が携帯の先では他人と入れ替わっていようとも。

技術が進歩するにつれ、身の回りの代替可能性は加速度的にあがっていく。こうやって見てみるともう代替可能性のないもの、代替不可能なものは自分の物理的身体しかない。だが移植技術や法の整備はそれすら代替可能なものにしていく。もはや代替不可能な存在というのは皆無なのかも知れない。

けど俺が問題にしたいのは、代替不可能性の絶滅ではない。人々がどれだけこの代替可能性の氾濫に気づいているのかと言うことだ。全く気づいていないのか、無意識のうちには気づいているのか、気づいていて「あえて」そうしているのか。

そこで先の感動系の流行についての話。反駁可能な議論、たとえば映画なら映画で「この映画はこうこうこういう理由で面白かった。監督のこういう意図・背景がみえたから面白かった」という議論は、よりメタレベルでの反駁が可能だ。「いやそうじゃない、過去の発言から見て監督の意図はもっと別にある」とかね。けど、「この映画は感動した」「この映画は感動しなかった」という議論は、反駁のしようがない。「だって感動したんだもの/しなかったんだもの」と言われたらハイソウデスカとしか答えようがない。
この反駁可能/不可能性というのは、そのまま代替可能性/不可能性に置き換えることが出来るんじゃなかろうか。反駁可能ってことは、別の意見に代替が可能だということ。反駁不可能ってことは、その意見以外に代替が不可能だと言うこと。

ということは、感動系の流行は代替可能性への抵抗感の表れ「かもしれない」と見ることも出来る。ところが、人々はこの反駁不可能=代替不可能な「感動した/しない」のスイッチを「あえて」装備しているようにはどうも僕には思えない。人々が上記のような代替可能性の氾濫に気づいてるのではなく、表面的には気づかずベタなまんま、しかし無意識に、身体のどこかでそれを感じ取り内面化し、抵抗する。ではいつどのようにして、人々は内面化を行うのか。

非常に強引な展開を承知の上で進めるならば、その一つが階層化社会だと思う。というか、「階層化が進んでいる」という言説。下流社会みたいにいちいち細かく分類しなくても良い。勝ち組か負け組かの階層化でもいい。とにかく社会がわかりやすく階層的に分割されている状況。この状況で、人々はそれぞれが属する(と信じている)階層の中で代替可能性を感じる。勝ち組のやつらに取っちゃ、俺という個人はどうでもいい、『負け組』のレッテルが着いてる時点で皆同じに見られるのだ。とかそういう風に。
この階層化の内面化による代替可能性への気づきは、服やら携帯やら音楽やらのそれに比べ、全体がすっぱり分割されてかつそれがわかりやすいので、相対化しやすい。服の代替可能性つってもセンスの良さは曖昧だし、見る人による。音楽もそう。だけど階層化の方は「年収○○円以上で子供がいる:勝ち/負け」とか非常に明快な区分でカテゴライズされる。自分の立ち位置が相対的に把握しやすいのだ。

まぁ要は代替可能性に一番気づきやすい例があれば良いわけで。何も階層化には限らない。他にも何かあったら教えてくださいな。