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自明視と強制



>「私は―だと思う」という書き方

しかし強制ってのは「こうしろ」「こうやれ」という形だけでないと思うのです。「私は―だと思う」という記述の仕方の続きに「だから別にあなたは好きなように考えていいんです。あくまで『私の』考えですから」という記述が確かにあるかもしれません。

ところがですね。それを言われたほう書かれたほうとしては必ずしもそうじゃない。「私はーだと思う」という記述を享受した時点で、続きの「だから別にあなたは〜」という記述の存在を分かりつつも、やっぱり「私」の方に配慮せざるを得ないかな、という感覚も生じる可能性がある。

例えば友達同士二人がりんごジュースかみかんジュースかどちらか一つを買おうという場面で、片方が「私はリンゴって好きだな」と言う。そうすると言われた方はじゃあリンゴジュース買うかということになるかもしれない。そうなったとして、それは強制じゃない、リンゴが好きだと言われても、無視してみかんジュースを買えばよかったという反論は詭弁でしょう。これは本人の自由意志を損なわない範囲内での強制です。

自明視ということに話を広げると、「私は―だと思う」という書き方を持ち出してしまうとさらに理論が強固になりかねません。

上記の例で、「私はリンゴが好き」という言葉はあくまで主観的な表現でしたが、これが「リンゴっておいしいよね」という言葉になるとそれはもはや自明視した態度です。この台詞だって要は「<私は>リンゴっておいしいよね<と思う>」に書き換えられるわけです。「私は―だと思う」という記述をすればいいということなら、こういう逃げ道だって可能なわけです。

文章だとなかなかうまいこと伝わりませんが、「私は―だと思う」という記述をすれば何でも強制なり自明視から逃れられるわけではないのでは、ということが言いたかったのです。