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ブログ論?補講


 事の発端は日本テレビの社員が今年の二月に盗撮事件を起こし、それが今までマスコミによって隠蔽されていたという事件。盗撮事件の悪質さもさることながら、いつも事件の当事者に攻撃的な取材をかけるのに、身内の起こした事件となるととたんに隠すという、マスコミ業界の身内に甘い体質に対して非難が集中していた。

 それについて薮本氏は元日テレの記者として、自らのブログで言及したのだが、いかんせん記事の結論としては、身内の擁護に走ったような感のある記事だった。女子高生のスカートの短さとか、幼い頃のスカート捲りとか、やや論点のズレた内容で加害者を擁護しているような論調なのだ。
 これに対しブログの閲覧者や2ちゃんから流れてきた人々が一斉砲火。ブログは「炎上」し、薮本氏に対する誹謗中傷も含めたバッシングコメントで覆い尽くされた。
 そうしたバッシングの大概が、「あんたの理論は間違っている。記事を削除して、ブログも閉じろ」「マスコミは身内に甘いことが証明された」などなど。ただ。こうしたバッシングは確かに一面的には正しいかもしれないが、ことの本質を見抜いていないような気がする。

「記事削除・ブログも閉鎖しろ」という批判。これはおかしい。確かに薮本氏の記事は、理論的にはやや危うい書き方だったが、たとえ間違った記事を書いたからといったブログを閉鎖しなければいけないという因果関係はない。理論的な間違いがあるからといって閉鎖しなければならないのなら、削除されるブログはたくさんある。薮本氏が「元日テレ記者」という肩書きで、公的な発言を担っていたにせよ、謝罪や訂正を行うことでそれは挽回できるはずだ。一つの間違いが一人の発言者を消していい理由にはならない。

 次に「マスコミは身内に甘い!」という批判。僕は、匿名とは言えこんなことをコメント欄にどうどうと書き込む人の心情が図りかねる。というのは、言わせてもらえば「そんなの当たり前じゃないか」という話だ。マスコミの報道が全部正しく、平等なのが当たり前だと考えてる人間が未だに存在する。そんなわけがない。スポンサーから金をもらってる一民間企業な以上、報道に偏向があるのは当たり前だ。身内に甘い?何をいまさら。当たり前じゃないか。そもそもメディアの報道姿勢なんかを全部ベタに受け取って丸々信じる方がおかしい。もちろん平等・公正さは視聴者として求めていくべきだが、そうそう理想どおりにいくわけではない。だからこそ、人々は複数のメディアに目を通し、ソースを掛け合わせた上で情報の真偽を見分けるリテラシーが必要なのだ。テレビだけ見て新聞やネットのニュースも本も見ないとなると、それは当然偏りが出てくる。視聴者はその偏りを認識し、自分達の側でバイアスをかけなおす必要があるのだ。

 そうした「複数メディアの掛け合わせ」によって真偽を見分けるというリテラシー。この観点から、僕はむしろその後薮本氏が書いた「おことわり」という記事にがっかりした。

「複数メディアの掛け合わせ」と書いたが、新聞・テレビのほかに、現在発展しつつあるのがネット、特にブログだ。前回の「ブログ論?」で、「公共的な場としてのブログ」というのがアメリカに多いと書いたが、薮本氏のような経歴を持つ人は、まさにそうしたブログによる「公共的な発言」を行うにふさわしい人だ。ブログによるジャーナリズムの一翼となれる立場にある。こうした人たちが、既存のメディアに抗し第3のセルとして、ジャーナリズムをブログから牽引していってほしい。そう思った。

 にも関わらず彼女は、「おことわり」の記事のなかで、自らのブログを「個人的に楽しんでるもの」と書いた。これには非常にがっかりである。ブログとジャーナリズムをまさに一つとしうる人物であり、現に「元日テレ記者」として実名でブログを書いている。当然その記事は「公共的」なものになりうるはずだ。それを「個人的に楽しむもの」として逃げ道を作り、批判をかわそうとした。ならば元日テレ記者という肩書きも薮本雅子という実名も外し、一匿名人としてネットの海で遊んでいればいいのだ。ブログのジャーナリズム性に期待している自分としては、この「個人的楽しみ」への逃避は大変残念だ。

 理論的に間違ったことを書いたことも、身内を擁護したことも、彼女のブログが「公共的」であろう、一つのジャーナリズムであろうとする限りでは、今後の糧となる紆余曲折の一つかもしれない。だがそれを「個人的な楽しみ」という枠で括り、逃げてしまっては、いかなる批判も免れ得ないのではないか。そう思う。