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優しいmixi・優しくないmixi

mixiについては、以前mixiに内在する権力みたいなものについて言及しましたが、今日はまたちょっと別の視点から。

前回・前々回と「優しさ」とは何ぞや、その扱い方はいかなるものかについて触れましたが。
書きながら頭の中にイメージしてたのは、中・高とどこのクラスにも存在した女子の「友達グループ」です。男子でもあるましたけど。
なんかどこにいっても、似たような感じの子が集まるんですよね。端から見ると。(実際に接触するとそう似てはいないことがままありますが)そしてそうしたグループは、ファッションや趣味とかで一見すると同質性が見受けられる。そしてあまり争うことをせず、つまりそこでの文脈を破壊せず、均質性を保持するんです。彼女たち(彼ら)のコミュニケーションの特徴は、それゆえに一見「優しい」。相手の言うことに素直に「そうだよね」と言える優しさ。いつも行動を共にできる優しさ。そうした優しさは、「コミュニケーションを円滑にするための」*1ツールであり、潤滑油。
僕は、こうした「優しさ」を使い続けてコミュニケーションを乗り切っていく彼女たちは、ある意味で「強い」のだと思います。集団の中で、話を振られて「そうだね」といわざるを得ない一種の権力構造が働く中、ウンザリせず(していてもそれを表には出さず)ツールとしてがっつり使い込んでいく姿勢は、強くないとできない。

こういう人たちが、mixiにもいます。以前僕が「書くことと書けないことを選別させる権力がmixiの中にはある」と言いましたが、その際に役割を果たしていた「足あと」や「コメント欄」を使い、コミュニケーションのツールにする。相手に自分が見ているということを伝え、日記には丁寧にレスを付ける。自分の日記へのコメントにもまた然り。こうした「優しい」対応で、コミュニケーションの持続性を円滑に維持する。ともすれば権力と化した視線にウンザリし、mixiをやめる人が出てきている中、それを逆手に取る姿勢はやはり「強い」のだと思うのです。

で、問題はこうした「優しさ戦略」から撤退してしまった人たちの存在です。「友達グループ」に入ったは良いものの、どうもその戦略になじめず人付き合いがおっくうになってしまった人、最初からそういうのが苦手な人、クラスにもいましたね。こうした人たちはこうした人たちで、どこか固まっていた感があったので別にそれはそれで良かったのですが、mixiの場合はそうもいかない。

これはあくまで大学生およびその周辺の年代の話として聞いてほしいのですが、この年代はmixiやってる人がかなりの割合でいます。だから逆に「mixiやってる?」って聞いて「やってない」と返されると、反応に困る。これだけやってる人間が多い中で、やってないと答えるってことは招待されてないか招待されたくないか、途中でやめたか、とにかく聞いちゃいけない理由がありそうなので、あまり深く突っ込めないわけです。そしてその人とはmixiを前提としたコミュニケーションは成立しなくなります。

mixiの機能をフルに使い込もうとすれば、どこかで疲れてくる人もいるでしょう。そこには前述の「優しさ戦略」に耐えうる強さが大なり小なり必要です。しかしmixi等のクローズドなSNSが広まるにつれ、それを前提としたコミュニケーションが増えるかもしれない。そうなったとき、ネット上の「優しさ戦略」から撤退した人・そもそも乗れてない人は、そのコミュニケーションに参加できません。参加したければそれに耐えるだけの強さを持つ必要がある。コミュニケーション・チャンネル獲得の代償としての「強さ」の要求です。
こうなってくると・・・飛躍かもしれませんが、mixiはそこに参加している人のみならず、参加していない人間にまで、「強さを求める」という形による権力を及ぼすのかもしれません。あくまでSNSが広がれば、の話ですので、みんなが撤退してしまえば成り立ちませんが。

*1:11日のnyaro氏コメントより