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「相手の土俵に立つ」ということ

「相手の土俵に立つ」って言葉ありますよね?たとえば勝負事とかで、相手の得意なフィールド・分野で勝負するとか、立場を相手と同じと仮定して話すとか。
ただこの言葉って、一般的に使われてる意味とは別に実際的な意味での効果があるような気がします。

それは、「相手の土俵に立つことで、逆に相手に自分が立っている土俵を知らしめる」という効果。たとえば何かの勝負事で、相手がえらく卑怯な手を使ってきたとしたら、普通はそこで同じことはやりかえしませんよね。そのままにしておけば、落ち度があるのは相手だけなのに、やり返したら自分も卑怯になってしまいますから。

けどここで敢えて自分も卑怯な手を使い、「相手の土俵に立つ」ことを選べば、相手に自分がやった行動がいかに卑怯で理不尽なものかを知らしめることができる。相手がどういう土俵に立っていたのか、自覚させることができるわけです。

ただこの理論が有効、というか相対的に意味があるのは当事者が本当にその二者だけであったときのみだと思われます。ボクシングでローブロー連発された選手が、相手にやり返すことでその行為の意味を自覚させる。ここでその試合を構成しているのが選手二人だけで、周りにジャッジも観客もセコンドも誰もいない密室でやってりゃ意味があるかもしれませんが、たぶんそんなことはない。両方反則取られるでしょう。もっとひどい反則技なら没収試合かもしれない。その後も協会かどっかから処分が下るかもしれない。二人の間では納得しても、二人の周囲からは相対的に地位が貶められる。これではやり返す意味がない。意味がないからこそ、ルールはルールとして成立し、反則の横行にはならないんでしょう。

そういう意味ではジダンマテラッツィに頭突きをかましたのも、マテラッツィに己の行動がいかなる対価を払うべきものだったのかを知らしめるためには、正しかったのかもしれません。だからといってどちらか一方が同情されたり批判されたりするのでは、ルールがルールとして意味をなさない。二人に同等の処罰が加えられなければならないと思います。

同様の理由で、日本が最近騒いでいる敵基地先制攻撃も、たとえば北朝鮮のミサイル基地に攻撃したとして、北朝鮮政府には確かに自分たちの行動がどういうものだったのか、どういう立場にいたのかを知らせるには良いかもしれません。ただ、国際社会からは「同レベル」扱いされて、非難されるでしょう。そしてこのことはすでにアメリカがイラク戦争で身をもって結果を示してくれているので、同じ轍を踏むのは賢明ではないと思うのですが。どうなんでしょう。