絶倫ファクトリー

生産性が高い

ユビキタスなモラル?(改訂版

どうも昨日書いた文章だとおさまりが悪いような気がするので改変。id:musimori氏のコメントやid:SuzuTamaki氏のトラックバックを参考にしています。

電車の中で化粧をするな、等々の公的領域におけるマナーというのは、つまり公的領域に私的領域のことを持ち込むな、ということだ。何故なのか?それは私的領域を見せ付けられた他人が、あたかも自分の存在が無いかのごとく振舞われていることに不快感を覚えるからだろう、ということになった。これは日本人が、アイデンティティを間主観的に獲得するという考えに繋がる気がするが、それは今は置いておく。
公的領域に私的領域を持ち込まれることの不快感。これが多くの人にとって共通のこととなり、かつ共有されるにあたり、それは肉体的不快感から「モラル」に変わる。マナーでもいいけど。このモラルがいつ成立したのかは分からないが、それは成立当時おそらく今のような安易に私的領域を公的領域に持ち込める事態を想定していなかったはずだ。例えば30年前、化粧品はまぁ今のような形だったにしても、電車の中で音楽も聞けてテレビも見れて電話が出来るなど誰が想像していたのか。モラルが禁止する以前に「出来ない」だろうと想定されていた事態が、技術の進歩によってどんどんできるようになっている。
だから現状を無理やり既存のモラルに当てはめようとしたって無理な話で、別に良いんじゃない?何がいけないの?って人が少なからず出てくるわけだ。ここで注目すべきは、既存のモラルの想定外のことが「出来る」ようになったことが即「する」ことに繋がる点だ。可能性が蓋然性に即座に変換されている。何故か?そっちの方が「効率」が良いからだ。音楽を家で聞いてから電車で出かけるより、家にいるときは静かな場所でしか読めないような本を読んで電車の中で音楽を聴いたほうが、同じ時間で出来ることは増えている。ここで重視されているのは効率であり効用であり、「経済性」のレベルの話だ。
乱暴な議論になるが、これは公的領域のモラルに限った話ではないと思う。nyaroが言っていた生命医療の話*1だって、著作権の話だって、監視カメラの話だって、それぞれ昔はそもそも技術的に無理だったことが「出来る」ようになり、即座にそれが「する」に繋がった点で共通している。「モラル・ルール」が「技術」によって「経済性」の観点から凌駕されているのだ。
こうしたことを考えると、「日本のモラルを回復しろ!」という叫び声は、まず人々が経済性を優先する態度を改めさせねばならない。だが現代に生きる我々にとって全く無理な話である。経済性には経済性で答えねばならない。僕が先日のエントリで自由をわざわざコストに還元したのは、こうしたモラルの失効に無理にでも回答を出そうとした結果なのだが、もしその回答が有効であるならば、そういう風に経済性のレベルにまで話を落としてモラルの失効に対処するしかないのということか。もちろんそれはモラルの失効をより強固にしているという点で、かなり皮肉な話なのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/nyaro/20061120