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「非行少年の消滅」


非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪

非行少年の消滅―個性神話と少年犯罪

テストと言うこともあり、さくさくっと読んでみたのだが、なかなか面白い。

2000年の少年法改正に見られるような、少年犯罪における言説の変化、とりわけ加害少年に対する厳罰の要求と、被害者に対する救済措置の要求の高まりは、まず少年一般を人格体現者としてみなす動きが高まったことに由来する、と筆者は言う。更に加えて、かつての加害少年を社会環境の「被害者」として扱うという文脈は、いまや「大文字の社会」の消滅によってリアリティを失っているとしている。
また少年犯罪の「凶悪化」「増加」という認識をデータの分析から「神話」として、リスク論と絡めながら少年犯罪に対する不安のスパイラルを指摘している。

と、いうのがものすごく大雑把な内容。これ以外にもたくさん論点はあるけれど。被害者救済とパターナリズムの話とか。

ところで一つ気になったのが、「大文字の社会」が失効することによって、社会の被害者とみなされてきた加害者少年の被害者性が弱まるという点。
だがもしそうだとすると、筆者が指摘している少年犯罪における「神話」を受け止めているのはどこなんだろう。「いきなりキレて何をするか分からない若者」というイメージは、やっぱり大文字の社会における共通認識ではなかったのか。ならば、大文字の社会は失効したというより、その内容が変質したというべきではないのか。しかしそうなると、加害少年の被害者性が認識されづらくなったことには、また別の理由が必要になってくる。

「社会の被害者」から「わけのわからない存在」へと、少年のイメージにおける「断絶」が生じたところで、その「わけのわからなさ」という物語は依然共有されたままだ。
現代において、日本の「大きな物語」は社会における「不安」に変わっていったのかもしれない。それは「神話」によって生み出されたものではなく、逆に「不安」が「神話」を生み出したのではないか。そして「不安」は社会の不安定化―「安定した日本社会」という「大きな物語」の変質―を経て生み出された。
しかしそうなると不安定で、先がどうなるか分からない社会において、筆者が指摘した「リスク化社会」は、実質的に無意味なものになる。リスクをリスクとみなし、それを将来的に役に立てていこうという「リスク評価」は、社会が将来的に今と同じ状況であることを前提とする。
でなければ現時点でのリスク評価が将来においても同じである保証が無くなり、役に立たなくなる。なので、社会が不安定化したことによって個人の「不安」が増殖され、犯罪をリスク化するということは、こうしたリスク評価の原則に反し、意味のないものになっている恐れがある。

こうなると後に残るのはリスクヘッジの代償であり、すなわち自由の縮減「だけ」だ。ノートレランスと割れ窓理論に支えられた、実に不寛容な社会である。しかし寛容さの下がった社会は、それにしたがってよりいっそうリスク要因に敏感なり、不安に対する感度が上がる。対象を、リスク要因とみなす敷居をどんどん下げていく。こうなるともう止まらないスパイラルに陥る。この果て無き不寛容社会のスパイラルは、しかしどうもまだ止まりそうにない。