絶倫ファクトリー

生産性が高い

若者文化と保守化―カウンターとオルタナティブ

「文科系トークラジオ Life」より―「族」から「系」へ

TBSのラジオ番組で、社会学者の鈴木謙介がパーソナリティを務めている「文科系トークラジオ Life」ってのがあって、僕はいつもpodcastを利用して聞いているのだけれど、前回の「若者文化」についての話は面白かった。特筆すべきは前半部分で、要約すると、「若者文化」と一口に言っても、それは文化を消費する側=消費者と、文化を作り出す側=担い手という2つの側面を見る必要がある、そして1970年代から1980年代にかけて「若者文化」が花開いたとき、彼らは若者文化の消費者でありながら担い手でもあった。太陽族とかタケノコ族といった「族」と分類された人々は、消費者であったと同時に、その後担い手として若者文化を作り出す側に回ることになる。
しかし後続の世代は、その文化を形容する際「オタク系」とか「B系」とかいった風に、「系」というより軽いタッチの言葉でくくられるようになった。「族」と「系」の違いは、前者が担い手としての立場を含むのに対し、「系」は完全に消費者としての立場を全面化させた言葉であるという点だ。現在において「族」と付けられた若者文化の担い手を揚げるとすれば、強引かもしれないが「ヒルズ族」であり、彼らはITベンチャーという若者の文化を担っていると言えるかもしれない。だが多くの場合、今の多くの「若者文化」は、かつて若者文化の担い手であった年長者達によって作り出されたパッケージを、「系」と呼ばれる人たちが消費しているに過ぎない、という内容であった。

フレーム化されたカウンター

こうした話を前提として、鈴木謙介が「若者の保守化」というテーマに付いてさらっと触れている。(ポッドキャスト:「若者文化(ユースカルチャー)」part3 (文化系トークラジオ Life)*1曰く、「若者文化」というのは、「大人文化」に対する、つまりメインカルチャーに対するカウンターカルチャーの側面もあったはずなのに、現在の「若者文化」はオトナが作り出した「大人に反抗する・大人との差異を作り出すフレーム」に押し込められたものである、と。要は「カウンター」というパッケージングをされた文化をただ若者が消費しているだけじゃないの?ということである。そして本当に若者が保守化しているのであれば、こうした「若者文化」を仕掛ける側の大人たちは困る。なぜなら「カウンター」というフレームが有効でなくなれば、若者がそうした文化を消費してくれなくなるからだ。尾崎豊の歌詞を聞いて首をかしげる若者たちに、お前ら反抗しろよ!と朝日が言うとか訳の分からん話のように。*2

カウンターではなくオルタナティブでは?

で、「若者文化」に戻って考えると、僕は鈴木謙介のいうようなそもそもの前提、つまり「若者文化」が「カウンターというフレームに押し込められて」、そこに若者が乗っかって消費しているという論の「カウンターというフレーム」に疑問を感じる。ラジオの中では、「若者文化」の「カウンター性」について、「大人とは違うんだ」という性質を上げていたが、果たしてそれはカウンターと呼べるのだろうか?少なくとも「アンチ」という立場ではない。アンチとはある物事に対し、その否定によって存在を可能にする立場である。若者は大人の文化に対して明確な否定を示してはいない。そしてカウンターとは、否定と同時にオルタナティブを提示する立場である。しかし否定を示していないので、完全にカウンターとも呼べない。現代の若者文化は、単に大人文化に対するオルタナティブの提示ではなかろうか。そしてそのオルタナティブという枠の中で、様々なガジェットが記号として消費されていく。
そしてこのガジェットの消費スピードは、DVDのような記録媒体の普及・進歩、及びネットの進化によって加速される(というかされている)だろう。なぜならこうしたメディアの進化は、コンテンツの時系列的蓄積としてのアーカイブスを豊かにし、かつアーカイブに対するアクセスを容易にする。その結果、世代を超えてあらゆるコンテンツが消費されるようになるのだが、それは時代的背景などからは脱文脈化されてしまっているため、意味を超えて純粋にかっこ良いかかっこ悪いか、面白いか面白くないか、という形で判断されるからだ。初代「ゴジラ」も、「ゴジラ Final wars」も、脱文脈化されたデータベースの上では、純粋に作品の面白さだけで判断される。そして他により優れた作品が出てくれば、即座にそれは取って変わって消費の場に躍り出る。尾崎豊の歌詞に若者が首をかしげるのは、保守化というより(そもそも文化的にはもともと若者はカウンターすらしていない、既存のフレームに乗ってただけである)、消費物としての耐用年数が切れただけの話ではないだろうか。つまり「若者文化」は、メインがあってそれに対するカウンターというより、オルタナティブという枠の中で繰り広げられる差異化ゲームの材料に過ぎない。
こうなってくると、将来的にはもはや何がオルタナティブで何がそうでないのかという境界もあいまいになり、圏外にあったはずの「大人文化」もまたどこかで味付けされて、差異化のツールとして「若者文化」に吸収されるのではないだろうか。そして最終的には「若者文化」はサブカルチャーとしての枠も超え、全てを飲み込みフラットな差異と消費のゲームへと我々を誘うのだ…というのはやはり言いすぎだろうか。僕はサブカル方面は全く明るくないので、誰か詳しい人がいたらそこらへん教えてください。

*1:若者に限らず、保守化というテーマについては先日筑波大学で行われた関東社会学会のテーマ部会で、北田暁大上野千鶴子大澤真幸というそうそうたるメンバーが発表し、かつ質疑応答で鈴木謙介がこの三人に質問をふっかけるというカオスな状況があり、それを受けての文脈だった。

*2:ただここら辺の話を聞いていて思ったのが、「保守」とは果たして一体何を保守しているのか、カウンターとは何に対してカウンターしているのか、という話である。これは先の関東社会学会で上野千鶴子が言っていたのだが、例えば「バックラッシュ」という現象に対し、それを安易に「保守化」と同義にするのは難しい点がある。というのも「バックラッシュ」と言う現象は、戦後スキームに対する一つの「カウンター」でありアンチであるが、逆に「保守」と呼ばれる立場にいる人々が全てバックラッシャーかといえばそんなことはない。西部邁は保守ではあるが、彼は何かに対してカウンターしているというよりは保守という立場を保持しているのである。カウンターした結果、立場が保守っぽくなることはあったとしても、それは保守がすなわちカウンターであるということを意味しないのだ。