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「自己実現教」なるもの。

「自己実現教」なんて言葉があるけれど、この現代に生きる人はほとんど自己実現教の信者だと思う。日常生活において「自己の捉えなおし」とそれを「未来の自分」への資源にするという反復作業は、程度の差こそあれほとんどの人々が経験させられている。違うのは、自己実現教への信仰告白があるかないか。自覚的か無自覚か。その程度に過ぎない。

「自己」への言及は、あらゆるところで待ち構えている。いまや何を事実とするか、何を事実と「選び取るか」その選択でさえ自己責任になっている。自分が事実だと思ったものが事実になり、自分の世界を構築する。それは語彙となりその人の「リアル」となり、自己を編み上げる素材となる。ケータイ小説のリアルも、リアリティ番組のリアルも、自分が何を世界の構築物にするのか、その基準であり、要素である。

新聞・テレビ・ネット・新書・ドキュメンタリー映画・ノンフィクション小説 .etc ……いまや「事実」の調達先はいくらでもある。僕らの目の前には好きな「事実」選び放題食べ放題のバイキングが日々開かれてる。逆に昔はその種類が少なかっただけで、構図は一緒だと言えるかも知れない。

バイキングで大事なのは一つのものでお腹いっぱいにするのではなく、ちょっとずつ色んなものを食べること。じゃないとバイキングに来た意味が無い。同じように「事実」の選択も、これだけ選ぶ先があるのだからそれぞれからちょっとずつ選んで比較しないと、今を生きる意味が無い。時間は黙っていてもこぼれていく。ならば足元の砂塵となる前に、使い尽くす必要がある。ほら選べ、好きなものを好きなだけ。ただしバイキングのルールとして、取ったものは食いきらなきゃならない。自己責任で。そしてそれらは自らの血となり肉となる。

時間を「事実」に、己の世界の一部に変えよ。そして自己を捉えなおし、さらなる「事実」の選択に精進せよ。決して果たされぬ自己実現のマラソン。死ぬまでゴールも棄権も出来ない競争。

逆に言えばこの作業が出来ない人間は、次々に機械に置きかえられちゃうのか。インプットされたこと「だけ」アウトプットしてればいいのであれば、あとは時間の問題で早晩機械に追いつかれる。問題の設定とそこまでの道のりを自分で考える能力は人間にしかない。そこが人間の価値であり、多分徹底した資本主義が人間と人間ならざるものを暴力的にかつ原理的に分ける一つの境界線だと思う。