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生産性が高い

「タテマエ」というコミュニケーションコード

いわゆる「タテマエ」ってのは、立場の違う人間がとりあえず定められたコミュニケーションコードに乗っかることで、トータルのコミュニケーションコストを縮減するためのものだと思う。そしてそうまでしてコストを下げて、摩擦をなくし、コミュニケーションを図ろうとするからには、それなりにコミュニケーションの結果としてのベネフィットが想定されているはず。双方(かどうかは分からないけど)が違う立場に居ながら同じベネフィットを求めるとき、障害となる作法や形式の違いを乗り越えるために、統一的なコミュニケーションコードに則る。これが「タテマエ」であり、最終的に目指すベネフィットが「ホンネ」であると思う。

逆に言えば、コミュニケーションコストを下げていない「タテマエ」は、存在する意味が無い。何のためにわざわざ統一的なコードに則ってやり取りしてるのか。「ホンネ」と「タテマエ」があるのは良いんだけど、何故それが必要でどういう意味があるのか考えないと、手段しかないはずの「タテマエ」が目的化し、いつの間にか「タテマエ」を守ったほうがコミュニケーションコストが上がるようなことがあってしまっては、本末転倒だと思う。

ホンネとタテマエがあるのは別に日本だけでなく多かれ少なかれどこの国もそうなんだろうけど、無駄な「タテマエ」=遵守を目的化したコードが多くあるのもまた事実だとおもう。

「タテマエ」が共通のベネフィットを目指すものである以上、仮に想定されたベネフィットを共有したくない人間は、さっさとその「タテマエ」から降りていいはずだし、降りるべきだと思う。双方に無駄な負担を増やすだけだ。

いわゆる「道徳」とか「コモンセンス」とか言われている、人々の共通認識も、コミュニケーションコードとしてみればこうした考えが適用されてもいいはず。道徳だから常識だから皆知ってなきゃならない、じゃなくて、このベネフィットを共有したい人はこの道徳を、あちらのベネフィットを共有したい方はあちらの常識を、といった感じで細分化されて良い。

というか実際のレベルではそんな細分化はとっくに起こっているんだろうけど、まだ一部でそれを認めない、認めたがらない人が居る。伝統も常識もその共有が人々の利益になったから続いたのであって、そうでない社会が広がる以上、通用しないコードを元に戻そうとしたって無意味。もし似たことをしたいのならば、より広範囲に、最大公約数的に人々が乗っかれるベネフィットを探し、そのためのコードを作る必要がある。

よく分からないけれど、いわゆる「ソーシャルデザイン」が上手い人は、このベネフィットとそこに繋がるコードの生成が上手い人だと思う。*1

「タテマエ」「常識」「コモンセンス」。その先にあるベネフィットを共有しない人にはそれらから降りる自由があるべき。文句がある人は、オルタナティブなコードを作ればいい。自分たちが何を志向し何に乗っかっているのか自覚的でない人間は、他人に非合理的なコミュニケーションコードを強制する権利はないと思う。

*1:ちなみに脱線すると、東工大シンポで中島さんの言ってた「方法としてのナショナリズム」は、トータルで見るとかかるコストがかなり増幅されそうなので、新しいコミュニケーションコードとしては不適切じゃないかと思う。少なくとも現時点では。