絶倫ファクトリー

生産性が高い

彼は誰に「話しかけている」のか―<見る―見られる>の関係性が作り出す共犯関係

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最近ワイドショーや新聞を騒がせているこの事件だが、ここまで大きな扱いをされているのは、事件の猟奇性のほかに犯人が実に「マスメディア的」なタイプの人間であることに由来するのではないか。

一方で、星島はマスコミ取材にも積極的に応じた。事件に動揺して他の住民は口が重いのに、星島だけは冗舌だった。事件翌日の19日には報道陣に30分以上も対応し、警察の捜査状況や東城さん姉妹の印象だとかをペチャクチャと話していた。

彼が「ペチャクチャ」と話していた相手は、果たして誰だったのか。テレビカメラの向こうにいる、我々である。テレビの向こうで自分のことを見(てい)るであろう、「マス」である。我々はテレビに映る彼の姿を見ることで、彼と無言の「会話」をしている。彼の姿をテレビを通じて見ることは、彼が想定した「会話」の相手として、彼の用意したフレームの中にお行儀よく収まることを意味する。

また彼は「模範的」市民も華麗に演じている。

その上、マンション周辺で警戒に当たる警察官に「おはようございます」「ご苦労さまです」とマメに声を掛け、そうした姿も不審に思われていた。

これほどまでに「マスメディア」的な規律訓練の行き届いた人間はそういない。警察に進んで協力し、好意的な「模範的」市民であり、テレビを通して「大衆」と対話する。マスメディアを介した<見る―見られる>という関係性を余すところ無く内面化した人間である。
そしてこのマスメディア的な意味での「優等生」を作り出すのは、無論マスメディアを通じて「見ること」への欲望を持った我々である。彼は我々に話しかけ、我々は彼に話しかける。彼は我々に対して振る舞い、我々は彼に対して振る舞う。この共犯関係は、マスメディアが今のままである限り、逃れられない。

ではこれがインターネットだったら? すぐに思い出されるの「くまぇり」なる放火犯が、自らのブログでその犯行を客観的事実として記していた事件だろう。

凍結されたアカウント

江東の事件では、犯人と視聴者の間にある共犯関係のほかに、マスメディアそのものと犯人の間にも共犯関係があった。彼はマスメディアがこの画像を使うだろうと考えて喋り、またマスメディアもその先読みに応えた。この二重の共犯関係によって彼と我々との「対話」は成り立っていた。
放火事件の方では、マスメディアと犯人との共犯関係はない。それを介さずとも彼女はブログを使って我々と「対話」できた。ブログを使うことで、<見る―見られる>の関係性を自らプロデュースできた。だが犯人が見る人間の欲望を先読みし、見られる者としての振る舞いを自ら規定するという図式は、マスメディアを使おうがブログを使おうが変わらない。むしろ後者の方が敷居が下がったと言える。

テレビ、新聞、雑誌、ブログ、SNS、ミニブログ、動画サイト……見る者と見られる者の関係を作り出すメディアはこれらからも増え続ける。だがどのように形を変えようとも、我々は見ることの欲望と見られることの欲望が作り出す共犯関係からは逃れられない。インターネットの普及で様々なことが「変わった/変わる」といわれる中で、僕個人は「では何が変わらないのか」を見ていきたいと考えているのだが、これもまたそうした変わらぬことのうちの一つなのだろう。