絶倫ファクトリー

生産性が高い

「昭和三十年代主義」という夢想、もしくは勝ち逃げの思想

昭和30年代vsポストモダン―定常型社会への回帰

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本


オビ裏には「日本人が昭和レトロ・ブームにハマったのには理由があった!」と煽ってあるが、この本においては昭和30年代レトロブームの分析は単なる入り口でしかない。基本的にこの本は様々な映画、小説をアナロジーにした「昭和30年代的社会/個人」と、「ポストモダン的社会/個人」*1の対立で論が進んでいく。

昭和30年的社会/個人

社会全体のスケールが小さく、人々は自分が認知出来る範囲の生活空間の中だけで生きていた。
不便ではあったが、ゆえに人々は様々な「必要」に縛られ、その「必要」が人々を団結させていた。

  • 「Always」の鈴木オートの夫婦
  • 「いつでも夢を」における勝利・ひかる
  • 「模倣犯」における有馬義男・高井和明
  • 「明日があるさ The Movie」における浜田
  • 木更津キャッツアイ」における主要メンバー五人

ポストモダン的社会/個人(著者は「ポストモダン的」という言葉は直接は使っていない)

  • 進歩・変化が尊ばれる社会。常に新しいもの・他と違うものを志向する。

技術革新に拠って人々は「必要」から解放され、消費のメカニズムに組み込まれた。
価値は相対化され、あちこちで価値の転倒が引き起こされる。

  • 「続・Always」における成城のお嬢様、美加
  • 「模倣犯」におけるピース、浩美、岸田明美
  • 「明日があるさ The Movie」における望月(柳葉)


友達や家族、恋人、そうした自分が認知できる範囲内での<普通>を志向する昭和30年代的個人。
そうした「ジモト」的な束縛から離れ、メディアをベースにした消費行動に踊らされるポストモダン的個人。

著者は、ポストモダン的な社会は成長を前提にして成立しているが、もはや社会全体での成長など見込めず、ゼロ成長を前提にした社会を作るべきだ、と述べている。そして現在盛り上がっている「ワープア論壇」的な労働運動や、「ジモト志向」な若者はそうした身の回りの小さなスケールの社会を実りあるものにしようという動きであるともしている。
また鈴木謙介の「カーニヴァル化する社会」を援用しつつ、定常型社会には生活にメリハリをつけるための「祝祭」が必要であり、ヨサコイ祭りやワールドカップの熱狂はそうした「ハレ」の表出であるとしている。

著者自身は昭和30年代と言う時代そのものは「大嫌い」らしい。不便で不潔で自由がなかった、と。しかし成長を前提にした社会が崩れつつある今、大きなスケールの成長を諦めて、身の回りの小さなスケールの充実を求める社会=昭和30年代的社会に方向転換すべきである、と述べている。

「消費者」という印籠を捨てて小さな社会に戻れ―という勝ち逃げ宣言

著者の主張をミクロレベルで見るとこのように整理することも出来る。個人が生きる意味を家族や友達といった「小さな成熟」の中に求め、変わらない小さな社会の中でカーニヴァルを楽しめ、と。今の我々は収まるべき小さな社会がなくなってしまい、「自己実現」という名で常に自分で自分をドライブさせる必要に迫られていると。それでは辛かろう、宮台真司の「内在系」とか無理じゃんよ、まったり生きてたはずの女子高生もメンヘラっちゃたし。素直にフツーの生活に収まってこうよ、と。
確かにそれはそのとおりで、「定常型社会」などというものが容易に作り出せたら苦労はしない。しかし「カーニヴァル」にしろ、<ハレ/ケ>の区別を包含する<変わらない日常>というフレームが必要である。それがなくなってしまうとまさにカーニヴァルは「暴走」してしまう。

そして著者の指摘どおり、「必要」に縛られた「小さな社会」「変わらない日常」は、昭和30年代の日本人が抱き続けてきた進歩・成長という夢がついに結実した結果、破壊された。それは端的に資本主義の成功であり、消費社会の進展である。そしてその流れ自体は原理的にも社会的にも否定できるものではない。資本主義である以上消費社会の外には出られない。個人の生活はますます文化的な生活と動物的な生活の二層が分断され、前者の<ライフスタイル>はより一層複雑さと新しさと差異を求め、後者の<生活>はより一層同じものをより安く求める。「消費者」という印籠の下、それらは交わることなく逆のベクトルを向きながら伸張する。昭和30年代にあっては、それが一つの空間で交わり収まっていたのだろう。だが資本主義は自己駆動する。消費もまた同じ。今更皆せーので「消費者」の印籠を手放すなどもってのほかである。依然として印籠は有効であり、進歩と変化の「大きな社会」への欲望は残り、身の回りの生活を支える「小さな社会」との乖離は大きくなり続ける。「大きな社会」を志向するレールから外れた一部の人々は、<ジモトつながり>しか頼るものがなくなりババをひくハメになる。先月のエントリで何度もとりあげた新谷周平の論文も本書で言及されてはいたものの、ストリートダンサーの集団内におけるメリット=一般互酬性しか扱っておらず、彼らが自分たちのカルチャー=ジモトつながりへの傾倒によって現状の生活に縛り付けられ、上昇のためのラダーを上れないデッドロックに嵌っていることは完全スルーである。
それに今の若い世代から見れば、今更五十、六十のおっさんどもに「ごめん僕らが若い頃抱いていた夢は間違ってたようなのでナシね」とか言われても、あんたらそういうの勝ち逃げって言うんだよとしか思えないだろう。

小さくなり続けるパイを奪い合うなら、パイがのっている皿も縮めてしまえばいいじゃないか。それなら身の丈にあう。そう著者は言いたいのかもしれないが、例えそれが本当に適当な策だったとしても、人々は決してそれを許さない。老いたる者は夢の続きを見ようとイスに座り続け、若い者は下手に夢を見させたツケを払ってもらおうとする。後者は前者の年金を目減りさせ、前者は後者の収入を上げさせない。クロスカウンターが見事にばっちり決まっている。

そうした「詰み」の状況だからこそ、クロスカウンターの決まった今だからこそ、「昭和30年代主義」のような小さな社会の復権を目指す方策は輝いて見える。だが先に拳を下げた者は殴り倒されて死ぬ。お互い同時に拳を下げて、社会全体が変革するような機会が来るのだろうか? 非常に困難な作業に思える。

*1:ポストモダン的という言葉は著者は使っていない