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なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流

<ユートピア>の脱走者/破壊者

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8日午後0時30分ごろ、東京都千代田区外神田3丁目の路上で、車が通行人らをはねた後、車から降りてきた男1人が通行人らに刃物で次々に切りつけた。東京消防庁によるとけが人が17人(男性14人、女性3人)おり、警視庁によるとけが人には警察官(53)も含まれる。このうち心肺停止状態の人も5人程度いるという。

現時点で6人の死亡が確認されている。(書き始めたときは3人だったのだが、次第に増えた。ご冥福をお祈りいたします。)

犯人は逮捕されたが詳細な動機は分かっていない。当初暴力団員と名乗っていたらしいが、後に撤回された。一部報道では「生活に疲れてやった」と述べているらしい。奇しくも今日は7年前、付属池田小で宅間守が起こした事件を起こした日のようだ。

宅間守についてはこのエントリの後半に書いたのだが、今回の犯人も似たような印象を受ける。彼もまた自分の住んでいた生活空間を抜け出し、秋葉原という<ユートピア>を破壊しにきたのかもしれない。彼の生活空間は不全を起こし、しかし世界の全体性=システムにはアクセスできなかった。自分の周りの社会を変える事が出来なかった。そのため「脱社会的存在」になるしかなかった。さらにそれだけでは飽き足らず、<ユートピア>を破壊する必要があった。

何故秋葉原なのか?

気になるのは、何故秋葉原なのか、と言う点だ。日曜の昼下がり、東京で人がいそうな場所はいくらでもある。渋谷、新宿、池袋。むしろこれらの都市の方が秋葉原の歩行者天国より人はいるかもしれない。

北田やその他の都市論を呼び出すと、今、こうした大きな都市は「渋谷」「新宿」という記号によって万人に共通のイメージを喚起する力はなくなっているという。渋谷と聞いて人々がある程度共通のイメージを思い起こすのではないし、またそうしたイメージに基づいて渋谷を訪れているのではない。あの店のこの服が欲しい、あのカフェに行きたい、そうした人とモノと情報のアーカイブとして認識されている。そしてそこを訪れる人々のモチベーションとなっているのは、記号ではなくコミュニケーションである。下北沢や裏原宿のように、単なる消費者と店員という関係を越えたコミュニケーションに期待する例がその最たるものだ。こうした例は渋谷などでも起きている。

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このエントリで使った図式でいえば、かつてスペクタクル志向空間であった多くの東京の都市、共通の記号を人々に喚起させる都市であったのが、コミュニケーション志向空間へと移動している。記号的なイメージによって人を集める都市から、個別のコミュニケーションを期待する都市へと変わっている。昨日聞いた話では代官山などもそうした例であるようだ。

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ところで秋葉原は、そうした流れとは逆の方向に移動している。従来は種々のオタクと呼ばれる人々がコミュニケーションを志向して集う空間であったのが、近年のメディアの露出を通して秋葉原という都市に共通の記号を見出し、スペクタクル志向空間になっている。よくオタクが「俺たちの知っている秋葉原は死んだ…!」と嘆くのは、こうしたコミュニケーション志向空間から、メディアを通じて喚起されるスペクタクル志向空間に変わったことを指すのではないか。

今回の事件の犯人がどのような基準で惨劇の場を秋葉原にしたのかは分からない。が、車で突っ込んでナイフを振り回せばとりあえず人が大量に殺せそうな場所=大都市という連想で秋葉原を選んだのならば、やはり秋葉原という都市は万人に共通のイメージを喚起しうる、スペクタクル志向空間になっているという一つの例なのかもしれない。

(追記:)犯人が静岡から来た、というのもそれが事実なら重要かもしれない。地方から見た「東京」的な都市のイメージの供給源が渋谷などから秋葉原にシフトしているのだろうか。