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批評とは、暴力であると思う

批評とは、暴力であると思う。

暴力は善悪の彼岸よりやってくる。あらゆる論理や倫理に先立つ。私があなたを殴った。そのことをは厳然たる物理的現象であり、それ以上でもそれ以下でもない。それに対する善悪の判断、倫理は、こうした原初的な暴力に対する脆い後付けの柵である。
批評、なるものを僕はほとんど知らない。少なくとも文芸批評について書いたことは無いし読むことも少ない、なのでid:sakstyle主宰の筑波批評社として講談社BOX:東浩紀のゼロアカ道場この道場破りに参加することになった(筑波批評社は6人いるのでまだどの2人が出るかは決まっていない)今も、「批評」なるものが何かは、分からないでいる。だがかしこまった学術論文でもなく、さらさらとしたエッセイでもなく、しかし読み手に何かを訴える文章を書かねばならぬ、書きたいと思うとしたら、それはもはや文章による暴力である。現実に存在する何かを名指し、他と切り分ける行為である。そこに論理や倫理があるのではなく、それが論理や倫理を作り出す。大理石から寒天まで、あらゆるものを切り出し、この世に現前させる。それは鋭利な、実に鋭利な暴力である。

先日、ゼロアカ道場の主宰、東浩紀2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨した。とりあえずゼロアカ関連の質問を受け付けていたようだったが、

>>> つーか、ゼロアカの質疑応答はゼロアカのほうでやれよ。
アンフェアだろうに。。

その場にいれるかどうかも才能。
重要事項はちゃんとあとで公式に告知しますよ。

ゼロアカに関する質問を来週やります とか告知した?
なんで、そんなのしなくちゃいけないの?w
高校の入試じゃないんだから。みな自分で情報は探すんだよ。
ついてるやつはついてるんだよ。それが人生でしょ。<<

と言う受け答えがあった。これが大学受験なら相当まずいが、批評のレースにおいてルールは所与のものではない。批評が暴力であるならば、暴力のルールは暴力が決める。最初に一発殴った奴が「殴るのOK」というルールを作り、最初にナイフで切りつけたやつが「ナイフもOK」というルールを作り、最初に核爆弾を落とした奴が「核もOK!!!」というルールを作り出す。

ルールは我々の繰り出す拳の先にある。我々が繰り出すナイフの切っ先にある。我々が文字を書くペンの先にある。アカデミックな論文は既存のディシプリンに従えばある程度の方法論的正当性は調達できようが、どうも話を聞くだに批評はそうではないらしい。とするならば、あるものを名指しそれを他と切り分けたその返す刀で自らの立つ位置もまた切り出さねばならぬ。

今後批評社内では誰が中心の2人となって道場破りに参加するのか決めるのだが、僕個人としては上記のような意味で「暴力的」な批評を書いてみたいと思っている。名指し、切り分け、そしてまた新たな地平を切り出す。印刷された文字があたかも人を殺せるかのような批評。