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『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』をどう読むか。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

「分かりやすさ」に振り回される人びと

いわゆるこうした「事件本(?)」は、洋泉社のではないものの、宮崎勤酒鬼薔薇といった、今回の事件と並べられるであろうものはそれぞれ読んだ。そして今回のこの本は、レーベルのせいなのかもしれないが、前二者と比べて圧倒的に面白くない。それはこれまで散々指摘されたこの事件の「分かりやすさ」のせいだろう。
現に本書に記事を寄せる論者27人の議論は、事件を既存の文脈(事件直前の社会情勢、論者の持論)にストレートに流し込むもの、またそのように事件を安易に「物語」に回収することの危うさを指摘するもの、この二つに大別できる。そしてこの二項は事件発生後一ヶ月の間にテレビ・ラジオ・新聞・ネットで散々繰り返されてきた構図となんら変わらない。ベタにしろメタにしろ、この事件にまつわる言説は「分かりやすさ」に支配されていることの証左となっている本である。*1そもそもタイトルからして「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」であり、90年代の犯罪に付き物だった「心の闇」、つまり事件の容疑者である加藤智大という人間の「分かりにくさ」にアクセスしようという試みは端から放棄されている。容疑者自身の、物語に回収されないパーソナリティをどうにかこじ開けようという宮崎―酒鬼薔薇ラインで繰り返された試みは断念され、代わりに加藤智大容疑者をいかに物語の束に分解し、回収していくかという営みが繰り返されている。

物語の断念と欲望と

となると、この本に限らずメディア上に散見するこの事件についての言説を見た者は、なぜ我々はかようにも「分かりやすさ」から逃れられないのか、という疑問を持つことになる。そういう観点からすれば、荻上チキ氏の「物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走を招く物語」という論考はそれなりに意味のあるものだった。事件を既存の物語に押し込める者がいて、それを受容する者がいる。そしてその物語のイデオロギー性を指摘する者がいる。まさにバルトの神話作用の構図にほかならぬが、荻上の論考はそうした構図そのものを提示する「解説者」(バルトの議論にそんなものはないだろうが)という立場であったように思える。
無論、荻上はそうした構図を高らかに解説し悦に入るなどという愚は犯さず、かような構造がいかにつまらないか、世の中を動かす力がないかを指摘する。社会を動かす力を持つのは常にそうした神話の構造の発生源たる加藤=事件を起こした者である。彼は言う。「そこで提示される物語にナイーヴに反応するのではなく、事件の衝撃やメディアイベントを「たくましくスルー」しつつ、それが通り過ぎた後に淡々と社会のアップデートを計っていくしかない」(p.97)と。
もちろん、文化系トークラジオLIFE秋葉原事件特集でチャーリー=鈴木謙介が指摘していたように「物語への欲望」は非常に強い磁場を持っている。「分かりやすさ」を振り切り、「たくましくスルー」できるのは文字通りたくましき「マッチョ」たる必要があることは留意すべきだろう。

あとは個人的に面白かったのは、東浩紀が、これまで新聞やテレビで述べてきたようなパフォーマティブでポリティカルコレクトな意見ではなく、かなり彼の持論の「ゲーム的リアリズム」の話に引き付けていたのが目新しかった(僕の観測範囲外ですでに話しているかもしれないが)。

*1:そう言う僕自身ももちろんそのうちの一人であった。