物語をリロードするまなざしとその揺らぎ
- 作者: ヴァルターベンヤミン,佐々木基一
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1999/11/05
- メディア: 単行本
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物語をリロードするまなざし
原爆ドームが単なる瓦礫ではなく原爆ドーム足りえるのは、我々が「原爆の記憶」という一種の物語をそこに読み込んでいるからだ。それは「見る」という行為の、ある種の様式によって担保されている。我々が原爆ドームを見る際、それを単なる瓦礫ではなく1945年8月6日の惨劇をそこに読み込むような様式に基づいて、「見る」という行為を行っている。そのまなざしの様式は体系化され、継承される。そうした様式に基づいたまなざしは、そこに込められた記憶・物語を「リロード」する。一方で継承されなかったまなざしは、対象に込められた物語の剥落を意味する。リロードされない物語は、風化する。あと1年もすれば、秋葉原の歩道を歩く人はこう言うかもしれない。「え、ここって昔は歩行者天国だったんですか?」
広島の例の件は、このような「物語をリロードするまなざし」の揺らぎについて、よく教えてくれた。「ピカッ」という、原爆の記憶から完全に剥離したシニフィアン。煙という素材もあいまって、まさにベンヤミンのいう「一時的で反復的」な展示的価値をよく体現している。このパフォーマンスが呼んだ少なからぬ反発は、このシニフィアンの原爆の記憶というシニフィエのなさ、つまり物語をリロードするまなざしが「空振った」ことへの反発なのだと思う。一方でそのまなざしというのは、本来は「一回的で歴史的時間」のある礼拝的価値を下支えする行為の様式である。空疎なシニフィアンによって、本来呼び出されるべきでない様式のまなざしが呼び出された。今回のパフォーマンスにもし意味があるとすれば、そうした「まなざし」の誤作動、錯覚のようなものをあぶりだしたことなのだと思う。
遊離した機能 function としての原爆ドーム?
そういえばはてブでは同じく広島で原爆ドーム上空に黒い花火が打ち上げられたニュースが話題になっていた。こちらも上の件と同じく煙を使ったパフォーマンスだけれど、こちらはシニフィアンの奥(下?)に原爆ドームというシニフィエが見える。ただしそうなるとこっちはロバート・ベンチューリの言うサインと背後の建築の関係に似ていると思った。彼は様式 form と機能 function の遊離を指摘したが、こちらの場合、「ピカッ」の例と同じく煙で出来た薄っぺらいサインは、そのまま原爆ドームという建築から遊離している。この場合、原爆ドームは機能の位置に当てられていることになるのだが、そうなるともうなんだか「追悼」どころか皮肉としか思えず、そういう意味ではこちらの方がより「現代アート」っぽく感じた。原爆ドームをfunctionの位置に押し込めることのできるパフォーマンスというのはそうそう無い。『趣都の誕生』の森川嘉一郎による富士山とサティアンの関係性を持ち出せば、より容易に「不謹慎(笑)」のレッテルを貼ることが出来るだろう。