『アーキテクチャの生態系』から見るニコニコと2ちゃんねるの分岐
- 作者: 濱野智史
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2008/10/27
- メディア: 単行本
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アーキテクチャの内部にとどまるニコニコ、外部にはみ出す2ちゃんねる
各所で指摘されているが、濱野氏による論考の優れた点は、それまである一つの空間におけるコミュニケーション論的な方向でとどまっていたウェブ論を、アーキテクチャという観点から捉えなおし、さらに同期性という時間の概念を取り込んだことである。それにより、複数のレイヤーを奥行きを持って分析することが可能になった。
北田暁大が2ちゃんねるの分析に用いた「繋がりの社会性」というタームによって類似性の指摘されていた2ちゃんねるとニコニコ動画だったが、この本の論考によれば、それぞれ全く逆の方向に進化していくことが良く分かる。
濱野は本書において、ニコニコ動画はその擬似同期的なアーキテクチャによって、コンテンツ(動画)の層とそれを媒介して行われるコミュニケーション(繋がり)の層が重なり合う、と指摘している。個人的にはそのコンテンツがコミュニケーションを繋ぐものかどうかの基準としての「規範」も、さらにその奥の層に加えてみたい。
コンテンツ層にある動画は、その背後にある規範(ニコニコ動画内に発生した「文化」とも呼べるかもしれない)によって「面白い」「面白くない」の決定が下され、コミュニケーション=コメントの多寡に繋がっていく。それらはすべてニコニコ動画というアーキテクチャの中で納まっている。
一方で2ちゃんねるは2ch内のコピペやジャーゴンで盛りあがる=コンテンツをそのアーキテクチャの内部で調達することもある一方、ニュー速やそのまとめサイトなどは2chの外部からそのコンテンツを往々にして持ってくる。
そしてそれがコミュニケーションを支えるコンテンツとなりうるかどうかは、その深層にある規範をその場の人間が共有しているかどうかによる。多くの人間に共有されている規範に拠っているコンテンツであればあるほど、それがコミュニケーションを接続する蓋然性は高くなる。ゆえに2ch、特にニュー速的なコミュニティでは「JK=常識的に考えて」正しい意見が広まる。覚せい剤によって意識が喪失している人間が車を運転し、死亡事故を起こした場合、「常識的には」覚醒剤+交通事故で人を死なせた、という二重の十字架によって「こんなやつ死刑だろJK」となる。そこには法学的な、論理的な正しさは介在し得ない。なぜならそのような「常識的」ではない規範は、コミュニケーションを接続させる蓋然性が低いからだ。ここで選ばれる規範は、コミュニケーションの接続蓋然性が高い=みんなが知っていると思われる規範である。それに基づきコンテンツが選択され、コミュニケーションが発生する。
競合するコミュニティ内の規範
複数のコミュニティ間で、異なる価値観・規範が競合したとき、最終的に勝ち残るのは強度の高い規範を持つコミュニティである。つまり分かりやすく、多数者が支持する規範を持つコミュニティである。
ローレンス・レッシグ『CODE』を参照すれば、インターネット以前はそもそもコミュニティ間の規範の競合は起こりえなかった。正確には可視化されなかった。Aというコミュニティでは品行方正な高校生が、 Bというコミュニティでは飲酒したり喫煙したりする。インターネット以降、個人の行動がウェブ上でログとして残り、閲覧可能になることによって、個人が複数のコミュニティの相反する規範の間で板ばさみにあるということが発生するようになった。それは複数のコミュニティの規範が、個人を通じて衝突するということでもある。
その中で2ちゃんねる的な、接続蓋然性の高いコンテンツを求めるコミュニティは、ある意味で「最強」である。そこで選ばれるのは、最も強度の高い、「JK」という規範である。それは特に2ちゃんねるに限らずとも、接続蓋然性の高いコンテンツを求めるコミュニティならば、どこにでも伝播しうる現象である。