絶倫ファクトリー

生産性が高い

戻らない日常のために、出来ること

3.11震災以降、「日常」という言葉をよく目にする。震災によってそれは送り過ごすものから取り戻すべき対象に変わった。時に「有事」という言葉が添えられ、あたかも戦争下に置かれているかのような比喩も目にする。

さすがに戦争の例えは行きすぎている。第一、倒すべき敵が存在しない。確かに一部の買い占め部隊の方々は見えない敵と戦っている風ではあるが、一過性の穏やかなパニックにすぎない。

けれどこうした状況下で、僕らは確かにさまざまな「やるべきこと」に囲まれている。節電、自粛、それらの揺り戻しとしての消費活性化、被災者への寄付、そして祈り。「まずは自分たちのできることから何かやろう」。こうした言葉は、様々なメディアを介して耳目に触れる。

一方、マクロのレベルでも事態は少しずつ変わり始めている。モノの値段が一部は上がり、一部は下がっている。それまで特に大きく変わる理由のなかったものも、数字が動いている。またあれだけ改善要求が出されながら一向に事態が変わらなかった新卒採用の時期も、後ろ倒しになる公算が高い。そこに関わるプレイヤーが「いっせーのせ」で動かない限り決して崩れることのなかった均衡が崩れ、新しい均衡へと向かっている。

もはや地震の一次的影響は東京から消え、二次的、三次的影響がマクロのレベルで起き始めている。それは震災によるダメージの復興とは無関係に、自律駆動し始めている。余震が収まろうとも、仮設住宅が建とうとも、その横でかつての日常は別の日常に塗り替えられつつある。

ミクロのレベルでもそうだ。僕らが声高に日常を取り戻そうと叫べば叫ぶほど、一歩下がって見ればそれは非日常的な光景であり、さらにカメラのフォーカスを引けば、それは別の日常=別の均衡へと動く大きな流れの中の一粒にすぎない。

テレビやネットから流れてくるマクロな非日常の光景に、僕らは弱い。みんなそれまで生きてきた「日常」を「特に何もない、普段通りの生活」としか定義できないからだ。ミクロな動きが集積し、思ってもいなかった(かもしれない)方向へと傾きだした世界を見て、「何かやろう」と思う人は、少数派ではない。

けれどそれは何を、誰の、何のために? そしてその空欄が埋められたとして、本当にその行為はその人の望んだ結末に結びつくのだろうか。それはもしかしたら、全く別の日常への第一歩かもしれない。

それぞれがミクロの中で「何かやろう、何かやらなきゃ」と思った帰結として、全く別の日常を呼び起こす。結末の良し悪しは別として、もしも本当に日常が早く訪れることを望むなら、「今自分にできること」は常に「今自分の手に及ばないのでスルーすべきこと」とセットで考える必要がある。今自分が「できるかもしれないこと」はたくさんあるだろう。けれど、今自分が「解決できること」は、きっと少ない。「今自分にできること」「今自分の手に及ばないのでスルーすべきこと」を分けて考えることで、上手く自分と世界を切り離す。そうやって、小さな出来事を一つ一つ解決していく。

均衡が動き始めている以上、震災前と全く同じ日常はきっとやってこないけれど、それが今までの日常に最も近い日常が帰ってくる可能性の一番高く、一番早い手だてなのではないかと思う。

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