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ワールドカップ・再論


ワールドカップに関してはこういうの書いてたんですが、上記のライブドアの記事に反応してみると。

報道が協会に対して批判的な記事を書けないのは、書いたら書いたで協会から情報をもらえなくなってしまうからでしょう。他がワールドカップ一色で売っていこうというときに、自分のところだけネタがもらえなくなったら厳しい。

ただですね、記事の中にある「報道の自由」って言葉なんですが、あんまりこれを持ち出して話をするのは得策でないような気がします。サッカー協会への「配慮」なり、(そんなものがあるのならば)政治家への「配慮」は、確かに目に見えない権力が働いているとはいえ、形としては報道する側が「自主的に」そうしているだけです。なのでそこに報道の自由うんぬんを持ち出しても、「批判的な記事を書かない自由もある」っつー反論をされる可能性もあるわけで。

サッカーに限った話で言えば、情報を一括してコントロールしている協会に対し、ネタをその協会からもらえないとやってけないような商売の仕方をしている報道側がよくない…と言ってしまえば楽なんでしょうけどね。
そもそもそういうコントロールされた情報で満足してしまっている、我々読者(視聴者)側にも問題があったんでしょう。だから上記のライブドアの記事みたいのが出てきたのは、ワールドカップを機に読者のほうも意識を変えるべきだっていうサインなのかもしれません。

mixiのニュースを見ると、(ようやく始まった)日本敗戦・ジーコ批判といった記事にコメント付けてる人は、大体3タイプいます。

1.記事に同調する人(ジーコや日本代表を批判する人)
2.記事に同調しない人(ジーコや日本代表を擁護する人)
3.ジーコや日本代表を批判する人を批判する人

3番の人たちの言い分はこうです。

「試合が終わった後に監督や選手を批判し出す奴らはおかしい」

どういう文脈で彼らがこう発言してるのかは人によって違うんでしょうが、あるべき姿としては「試合が始まる前も終わった後も批判する」ってスタイルなんでしょう。試合が終わった後も報道側のペースに乗せられていたら、それこそ「協会ー報道ー読者(視聴者)」という、一貫した馴れ合いラインが出来上がってしまいます。

というか、こうした馴れ合いラインが現にワールドカップ以前に存在したという点を鑑みれば、ライブドアの記事にあるような「大本営報道」よりよっぽどたちが悪い気がします。大本営報道は嘘付いてたんで誰が見てもダメなんですが、今回の場合は「書くべきことの半分」しか書いてない(良い面/悪い面の良い面の方しか書いてない)ので、嘘はついてないですね。さっき言った「批判的な記事を書かない自由」です。しかもそれはそれで馴れ合いラインが出来てて報道側としては商売が成り立ってる。

似たようなことはサッカーに限らずテレビを中心にクライアント問題として存在するので、長くなりそうで書きませんが。

ブログでもmixiでも、読者(視聴者)側がもっと声を上げて異を唱えるべきなんでしょう。