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「災害としてのゴジラ」を昇華させたシン・ゴジラ

イギリスの哲学者ホワイトヘッドは、「西洋哲学の歴史はプラトンへの膨大な注釈である」と言った。同様に日本の怪獣映画の歴史は1954年の初代ゴジラに対する膨大なオマージュである。そういう意味で、今回の「シン・ゴジラ」もまた、初代ゴジラに対するオマージュ作品の一つであることに変わりはない。

しかし、「シン・ゴジラ」の質はこれまでのゴジラ映画とダントツに異なる。個人的に今回のゴジラはある種コペルニクス的転回というか、コロンブスのたまごというか、これまでゴジラ作品が新しく公開されるたびに抱いてきた違和感を解消してくれた。「災害としてのゴジラ」の徹底した描写である。

初代ゴジラは水爆の影響を受けて誕生した。日本に与えられるゴジラの傷跡は、単なる自然災害を超えた、水爆による「人災」としての意味合いも強かった。一方、それ以降のゴジラ映画、特に他の怪獣が出ないファーストへのオマージュが強い作品は、どうしても「災害」としてのゴジラ以上の描き方ができていない、と批判されてきた。それは当然といえば当然で、もはや戦後半世紀以上が経った中で、戦争や原爆のリアリティを持ってゴジラを作ることは不可能に近かった。1984年版ゴジラ、USA版ゴジラ(1998)はもとより、311後に作られたUSA版ゴジラ(2014)ですら、ゴジラは巨大な「災害」であり、人類の生み出した「人災」としての要素は薄かった。エンターテイメントとしては面白くても、それがゴジラである必然性が弱くなる。ゴジラを宇宙人と置き換えても成立してしまう。

シン・ゴジラはそこをむしろ徹底させた。「災害」としてのゴジラの描写に特化したのである。311の非現実的な現実を下敷きにし、「災害としてのゴジラ」を描くことが、今の日本にとって非常に重要であることを示したのだ。シン・ゴジラゴジラはもはやジュラ紀の古代生物が異常発達したものではない。熱線を吐く際のあの口の開き方、明らかに生物の顎の動き方を超えている。近づくものを自動迎撃する機能、もはや使徒である。シン・ゴジラが実写版エヴァと評されるのも頷ける。ただそうした「人間の想像力を超えた自然」を、僕らは5年前に目の当たりにしている。誰が3つの震源が重なった巨大地震を想定したのか? 誰が市街地の河川まで津波が遡上することを想定したのか? 誰がガイガーカウンターを持ち歩かねばならない日常を想定したのか?

初代ゴジラゴジラを倒したのは酸素破壊兵器=オキシジェン・デストロイヤーだったが、それは水爆にも勝るとも劣らない威力を持つ兵器であり、開発者の芹澤博士は対ゴジラ使用を拒否し続けた。そんな彼に使用を決断させたのは、テレビを通じて流れてきた東京の惨状と、何より全国から寄せられた平和への祈りだった。シン・ゴジラでも最終的にゴジラを倒したのは、全国から集められた技術と労働力であった。

1954年当時「人災としてのゴジラ」を描く価値があったのと同様に、「災害としてのゴジラ」を圧倒的なリアリティを持って描くことの価値が、今のこの国にはある。そう感じさせる映画だった。