絶倫ファクトリー

生産性が高い

東京タラレバ娘と働きマンってちょうど10年空いてた

(連載開始時期ベースで)

ってことをタラレバ娘の最新刊読んでて気づいた。働きマンが2004年連載開始、東京タラレバ娘が2014年開始。

そういえば、酒井順子がエッセイの中で「未婚、子ナシ、三十代以上」の女性を「負け犬」と定義したのは2003年だった。今考えるとだいぶひどい言い方だけど、無い無い尽くしに見える彼女たち、実はキャリアと貯金があるのだ。彼女たちがキャリアをスタートさせたバブル前夜は、男女雇用機会均等法が施行され、「女性も男性のようにバリバリ働き、稼ぎ、活躍できる社会」という徒夢を社会全体が見ていた時代でもあった。「負け犬」な彼女たちは、そうした夢を現実のものとし、男性並みに社会で活躍した。結婚や子育てという選択肢を放棄して。

つまるところ「負け犬」とは、男性並みに私生活を犠牲にして働く女性=「名誉男性」の言い換えである。

男女平等だなんだ言いながら、結局働くことと結婚や子育てがこの国では女性にとって二者択一でしかなかったことは、すでに2003年の時点で分かっていたわけだ。それでもなお「働きマン」が(働きウーマンでもなくて働きパーソンでもなく!)まさに超人の如く仕事に邁進したのは、すでに当時の女性の働き方が「男に追いつけ追い越せ」ではなく、「やりがい、成長、自己実現」に変わっていたからかもしれない。

目標体重を決めてダイエットするのが前者だとすれば、ひたすら平均タイムの向上を目指してランニングし続けるのが後者である。後者に終わりはない。やればやるほど目標はハードになる、無限のルームランナーである。ゆえに成長なり自己実現を目的とした働き方は、永遠に成就せぬロマンティシズムに他ならない。ロマンティシズムは、その破綻によってのみ終わる。ルームランナー上でいきなり止まったら当然転ぶのと同じだ。働きマンの連載は2008年に止まったままだ。ゴールのない無限のトライアルは、精神的、物理的な限界によって終わりを迎える。

一方、働きマンの10年後に現れたタラレバ娘たちに、成長ややりがいといった意識の高さは微塵も感じられない。むしろ3人とも「仕事」という意味ではそこまで社会的ステータスが高くない。倫子も序盤でメインの仕事を若手に奪われ、悪戦苦闘している。ただ漠然と続くと続くと思っていた日常、ただ漠然とやってくると思っていた結婚という未来、それらが「ただ漠然と」はやってこないことに気づく話である。「男に追いつけ追い越せ」でもなく、「やりがい、成長、自己実現」でもない彼女たちの日常は、とても現実のアラサー女性に近い。それがこの漫画の破壊力をより上げているのだが、逆に言えば、これが「仕事での成功や自己の成長」といったオチを難しくしている。3人とも結婚してハッピーエンドでも良いのだが、そもそ作者はあとがき(にあたる巻末マンガ)で「結婚=幸せという図式を描きたいわけではない」と述べており、それもなさそうだ。

「負け犬」でも「働きマン」でもない。競争や成長といった消耗戦から抜け出した女性の幸せは何か。10年経って浮かび上がってきたのは、極めて凡庸で、難しい問いである。単純に答えだけ出せば、それぞれがそれぞれの人生の中で大切なモノを見つけるしか無い、ということになる。それが家族でも趣味でも仕事でも構わない。ルームランナーの例で言えば、走るのが好きならば続ければいいし、ゆっくりとスピードを落としてその台から下りるという選択もするということだ。ハードなダイエットを行ったり、ストイックにベストタイムを追い続けるのではなく、自分で選んだ好きなことをすればいい。

漫画としてそれが面白く描けるのかどうかは分からないが、是非タラレバ娘には自分で自分の物語を掴んでほしい。ごく普通の結末であったとしても、それは多分働きマンが10年前に辿りつけなかった世界なはずであり、今こそ必要な世界観であると思う。