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漫画「ぼくらの」と宿命

哲学 ぼくらの

最近ふと、「謂れのある宿命・謂れのない運命」どちらが残酷で、どちらが自由なのだろうか、ということを考える。

この「ぼくらの」という作品を読んだ上で、「八月」という季節に生きることを考えると、ますます考えざるを得ない(以下ネタバレ注意)



「ぼくらの」では、ジアースという巨大ロボットを15人の少年少女が代わる代わる操り、地球にやってくる敵を倒す。操縦者は戦闘の度にランダムに選ばれるが、戦闘に勝利するとパイロットは死ぬ。
この「ぼくらの」がアニメ化される際、アニメ監督のブログでひと悶着起きた。詳細は省くが、監督が弁解の際、以下のような言葉を用いている。

これだけは約束できます。「子供たちはなぜ死ななければならなかったのか?」という原作最大の謎から私は逃げません。

これを見て僕は違和感を覚えた。パイロットの子供の死に対し、「なぜ死なねばならなかったのか」という明確な理由を描き出すこと、それはすなわちその死を正統化するものではないか。
それ以前に、ランダムに選ばれたパイロット(=次の死亡予定者)に対し、「なぜ」「今」「自分」なのかという問いの答えを探り出すのは極めて難しい。例えば、8月15日に特攻隊として出撃し、命を落とした兵士と、8月16日に出撃予定だったものの直前で終戦になり、助かった兵士。この二人に果たして大きな差があるのか。前者の兵士をA、後者をBとすると、15日に死なねばならなかったのはAであったという必然性はなく、もしかしたらBだったかもしれない。あるいはCだったかもしれない。全くの偶然性によった事態。これが「謂れのない運命」である。

一方で「ぼくらの」の監督の言葉が本当になるならば、彼はパイロットに死の理由を与え、彼らの死に正統性を与えることになる。「死なねばならなかった」という必然性を与えるのだ。これが「謂れのある宿命」である。


謂れのない運命、謂れのある宿命。どちらが人間にとって辛いのだろうか。「ぼくらの」は、少なくともそうした次元とは別に残酷である。なぜなら彼らは戦闘が始まってかなりの時間が経つまで、その「運命」すら知らなかった。そうしたことを考えれば、その人間が謂れの有無を含めて自らの運命・宿命を理解しているか、にもよるのだろう。

この謂れの有無、そしてそうした「セカイ」の認識の有無、これらどういった条件が人間にとってもっとも辛いのか。あるいはもっとも自由なのか。僕は答えを持ち合わせていない、というか答えが知りたい。何か参考になる本(学術書でなくとも小説や漫画も含め)があったら、是非誰かご教授願いたい。