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報道というプロペラは誰が回すのか トークラジオ「LIFE」の秋葉原事件特集についての違和感

メディア論 文化系トークラジオ Life

報道という行為の循環構造

6月22日「秋葉原連続殺傷事件」Part2 (文化系トークラジオ Life)

いつもpodcastで聞いているこのラジオ、先月22日の放送は6月8日の秋葉原通り魔事件についてだった。
その中で、サブパーソナリティの1人、IT・音楽ジャーナリスト・津田大介氏が事件とメディアの関係、端的に言ってしまえば現場にいた人がモバイルPCを使って動画でライブ中継するという行為について見解を述べていた。だがそれを聞いていて、個人的にはなんともいえぬ賛同と違和感の入り混じった複雑な感想(津田氏自身も微妙な言いよどんだような違和感を表明している)抱いた。

津田氏は、事件の当日、現場の様子をUstreamというツールを使いウェブ中継するという行為が行われたことに対し、「原始的で個人的な違和感」を表明している。そしてまたそうしたインターネットを使った個人の中継配信を従来の報道機関による報道行為と混同すべきではない、としている。

ただ。本当にそうなのだろうか。報道と個人の中継配信は違うものなのだろうか。

報道と言う行為は、何か絶対的な正当性がバックに存在しているわけではない。報道の正当性を支えるのは、まさに報道と言う行為に他ならない。彼らの報道を行うことで、情報は社会に発信され、それが行為として認知されていく。そしてその事後的な認知を元手にまた報道を行う。報道と認知との絶え間ざる往復運動、それを続けることに拠って、循環の輪を止まることなく回し続けることによって、成り立っている。それは撮る者と見る者の共犯関係、とも言える。

津田氏と同じタイミングで、同じくサブパーソナリティの斉藤哲也氏もまたこう述べている。既存の報道機関の人間はプロとしての義務感があり、責任があると。故にそうした覚悟の無い者による動画配信はまた質が異なると。

確かにプロの記者には責任がある。それは確かに個人の責任感ではなく会社に仮託されている。

ではなぜプロの報道機関には責任があるのか。
対価を貰っているから。対価を貰う以上そこに期待された仕事を果たさぬわけにはいかない。
何故対価が払われるのか。それはメディアの俎上に載せる価値があるから。
何故その価値があるのか。それはそうした情報を見たいと思う人間がいるから。
何故そう思う人間がいるのか。それはそれを報道する人間がいるから。

結局、それを報道だと思い価値を見出す人間がいるから報道をすると言う、マッチポンプの構造は変わらない。個人によるUstなりなんなりの動画中継との違いは、そこに会社なりお金なりが挟まっているか否かであり、彼らの持つ正義感であるとか、プロとしての責務のようなものが絶対的な正当性を担保するものではない。無論、メディアの歴史を紐解くとそこには近代において公共性が立ち上がってきた過程との関わりが存在したりするのだが、しかしそれは循環構造を回し始めた「出発点」「契機」であって、いざそれが回り始めたとき、その原点は循環の輪の中に溶け込み、やがて消失する。プロテスタンティズムの倫理が資本主義を駆動し、それが循環し始めた暁には、肝心の出発点であった信仰心が消失していたように。

なので報道と言う行為は、その循環構造に拠って回り続けている限り、単純な論理構造で正当化できるものでもないし、逆に否定できるものでもない。もし何か絶対的な権威があってそれが影から報道と言う行為を照らし出しているのならば、その関係性に疑義を挟み込むことで否定も出来よう。そうではない。報道に対する論理的な支えも、また否定の言葉も、この循環構造に飲み込まれ、消える。

だから、もしこのサーキットを否定するのならば、ロジックではなく感情、個人の違和感といったものでしかない。津田氏が最初に表明した「原始的で個人的な違和感」が数多く集まり、報道を見たいと思う人間が消えるとき、その循環構造は止まる。プロペラの止まったヘリコプターのように、地に堕ちる。

Ustreamによる中継は、かなり批判的な意見も集まったようで、それの多くは「不謹慎だ」とか「人としてどうなの」という、津田氏のような、ロジックではない「個人的な違和感」による者が多かった。そして恐らく、そういう人が多数を占める限りにおいて、それは報道ではない。プロペラは回らない。循環はスタートしない。なので番組内での個人的な違和感も、彼がtwitterでこぼしていた違和感も、それがそれである限りにおいて、多分正しい。逆に言えば、津田氏のような違和感を持たず、見るという欲望に肯定的な人間が多数派である限りにおいて、それは報道となる。今回はそうはならなかった。だが次は? 5年先は? 10年先は? 20年先は? それは未来の我々が決めることになる。

論理武装することの危険性

ところが、津田氏はこの話題に関する見解の最後で、個人的な違和感に敢えてロジカルな理由付けを試みる。「個人による動画中継は、ライフログであり、報道とはレイヤーの違うものだ」、と。原始的で個人的な違和感であったはずなのに、ロジックではなかったはずなのに、どうにかロジカルな理由付けを行おうとしていた。でも多分、それは当初の違和感で留めておいた良かったはずなのだ。あんなの気持ち悪い。俺は見ない。認めない。それで十分だったような気がする。

逆に既存の報道と個人の動画中継を無理やり論理的に分離させると、今度は報道があたかも絶対的な正当性のもと、勝手に動いているのだと勘違いされてしまう可能性がある。何度も言っているようにそれは違う。そしてそんな絶対的な正当性など無いからこそ、わざわざ報道の自由、表現の自由というフィクションを立て、法律で支えているのだ。逆に言えば、既存の報道だって、我々が「ないわー」と言って見ることをやめればそれは報道として成り立たなくなるし、またまともなモノを伝えていないと思えば見ることをやめてそれを潰すことも可能だし、可能でなければならない。

このようなことをわざわざ言うのは、別に僕が既存の報道機関が嫌いだからとかそういうのではない。「インターネットが世界を変えるんだ!」と叫びたいからでもない。インターネットは好きだが、昔からテレビにしろ新聞にしろ報道を好んで視聴してきた人間でもあるし、今もそうだ。
だからこそ、もし我々が報道が必要であると思うならば、それを空から降ってきた神様の贈り物かのようにその存在や正当性を絶対視、自明視してはいけないと考えている。絶対的でないからこそ、論理的に自明で無いからこそ、報道は人々の様々な努力でもって支えてきたし、今も支えられている。

報道というプロペラは回り続ける。
誰がまわしているのか。報道する者、それを見る者である。
誰が止めるのか。報道する者、それを見る者である。
なぜ回るのか。回り続けるからである。

では何故回り始めたのか?それを回そうとした数多くの人間の努力と長い時間があったから。

では今後も回り続けるのか?それは我々が決めることである。もしかしたら、もし我々がプロペラの回り方に無自覚であり、勝手に風が吹いて回っているのだとのほほんとしていたら、いつか止まってしまうかもしれない。それを強く人々が望んだ結果なら、それはそれでありだろう。けれど、「気づいたら止まっていた、止まると困るんですけど、動いてくれませんか」では遅すぎる。