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「嫌なニュースは見ない」の危険性

嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp

↑のタイトルにある「嫌なニュースはそもそも見ない」というのは、エントリにもあるように「悪いニュースの洪水に流されて、感覚が鈍化するくらいなら、テレビのニュースくらい切っておこう」という意図で、ブログ全体の様子からしてもそこまで気勢を上げて心地悪いニュースの遮断にこだわっているわけではなさそうだ。

ただこうした意図を噛み砕かずに、その手段だけを丸呑みすることは、結果としては「悪いことから目を背ける」ことと変わらない。
引用されている生徒と先生の会話も、確かにソースの信憑性が担保されていない情報は「現時点では」重要でないかもしれない。だからこそ、その先に続くべき行為はその情報が信ずるに足るものか確認する作業ではないか。もちろん、殺人事件のニュースが流れるたびに逐一真偽を確かめるなんてできっこないのだけれど、「?」と思った情報には留保をつけておくという作業は大切だ。
なぜならこういう作業過程がないと、ただ「悪いことから目を背ける」ことは、逆に言えば「背けなかった/られなかったものは丸呑みする」という行動に繋がりかねないからだ。防御壁を築くと、それをスルーしてきたものに対しての抵抗力は低くなりがちだ。悪いニュースというカテゴリで大きく括って遮断するよりは、良い(と思われる)ニュースも悪い(と思われる)ニュースも、良い悪いの価値判断を下す前に、保留をしたり別の視点から見るということを心がけるべきではないかなぁと思う。*1

情報の取捨選択、というか趣向に基づいた遮断は、メディアの技術的な進歩と不可分の問題であり、ここで1エントリ書いて済まされるものでは到底ないのだけれど、ちとはてブのコメント欄がナイーブではないかと感じたので、書いてみた。

*1:もちろん、「そんなことしてたら疲れちゃうよ!」って人はいるだろうし、たぶん上記のエントリはそういう人のために書かれたものなのだろうけど

電通の未来?

マスメディアの現状

うちの大学では水曜日、通年で「青木彰記念・ジャーナリズムの現在」という授業をやっている。
産経新聞社から筑波大学の教授に転進し、12年間教鞭を取った青木彰という先生が、ジャーナリスト志望の学生向けに私塾を開いていた。その教え子達が順番に授業を担当し、ジャーナリズムの現状に付いて語るという授業である。

今回は一学期最終の授業ということで、座談会の形式を取り、NHKキャスターを司会に、産経新聞出版社代表取締役、住友信託銀行、電通といったなかなか豪華な方々が来て、話をしてくれた。

話は主に新聞業界の現状と課題についてだった。要旨としては以下の二点に絞れるかと思う。

・新聞業界の6割程度が広告収入。この広告収入が今激減しており、経営が曲がり角にある。一方で、ネット広告の伸び率はすさまじく、2006年のネット業界の広告収入は2004年の2倍に増えている。
・既存のマスメディアは今まで外部からの資本の注入を避けてきた。だがこれだけネットが隆盛だと、新しい事業に参入せざるを得ず、その際に資金が必要になる。そのときに、金融機関は必ず資金・資本の提供を狙うだろう。

電通もまた危ないのでは?


つまるところ、新聞にしろテレビにしろ、ビジネスモデルである広告収入が伸び悩み、変わって、というかその原因となっているであろうネット業界は飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びている、と。
絶対的な数字だけで見れば、テレビ業界全体の広告収入は2兆円前後、新聞が1兆円、ネットが4千億円程度で、差は歴然としている。しかし前二者が頭打ちなのに対し、ネットは倍々ゲームで伸びている。ネットは成長産業である。
こう見ると確かにネットが伸び盛りで、新聞、テレビ危うし、と言った感じではある。しかし今回の講義でこのデータを喋っていたのは電通の社員の方だったのだが、かくいう電通も実は危ないのでは?と僕は思った。というのも、今起きているのは新聞やテレビで新しいコンテンツが出てきたというのではなく、ネットという新しいインフラが出現した、という話である。だから当然、テレビや新聞では異常なまでに高いシェアを誇ってきた電通も、ネットでは他のプレイヤー同様新規参入組に過ぎない。そしてすさまじいといわれるネット広告の伸びの中で、どれだけ電通がその割合を占めているのだろう?今ネット上を席巻しているのはgoogleなりamazonであり、ネットの革命者たちである。彼らは広告業にも非常に長けており、かつどんどん成長している。ネットが登場して危ない危ないといわれているのは、既存のマスメディアだけではなく、それをクライアントにしている電通もまた危機に瀕しているのではないだろうか。

広告型+課金型?


と、言うような疑問を、質疑応答の機会があったので、失礼ながら電通の社員の方にぶつけてしまった。そこで帰ってきた答えは以下のようなものである。
曰く、その質問は非常に的を得ていて、電通社内でもネット広告の獲得というのは急務になっている。実は守秘義務事項にひっかかるので詳しくはいえないが、既存のマスメディアはネットに進出していてもほとんどお金が取れていない。無料のサービスがメイン。そこをいかに有料のコンテンツにするかという話を進めている。現在新聞社、テレビ局と言った既存のマスメディアと手を組んで、ネット広告のシェア獲得に務めている。


とのことだった。ただこの回答にもひっかかるところが一つあったので、講義が終わった後にこの方に話を聞いた。というのも、普通ネットコンテンツで企業側がペイしようとした場合、普通はお金の取り方が「広告型」と「課金型」の2タイプに分かれる。ユーザーが無料で使えるのは広告型で、お金を払うとそうした広告を取っ払ったり追加のサービスが受けれたりする。しかし電通の方の回答は、コンテンツを課金型にしつつその中に広告を忍ばせるという趣旨に聞こえた。そうしたコンテンツが果たしてユーザーに受け入れられるのかどうか。そしてどのようにして広告を表示させるのかを聞いてみたかったのだが、残念ながらそれは電通の秘密兵器らしく、教えてくれなかった。

RSSリーダは広告を殺すのか


一つ残念だったなぁと思うのは、電通の方が示した今後の方向性が、既存のマスメディアとのスクラムだった点。僕はこのままだとそれでは危ないと考えている。というのも、今後の(というかもはや現状の)ネットコンテンツを語る上で欠かせないのが、RSSだろうからだ。現在僕は新聞を取るのをやめ、その代わりをRSSリーダーに頼っている。既存のマスメディアは、現在のところそこあRSS配信に熱心ではないようだ(新聞社のヘッドニュースはRSS配信しているが)。このRSS配信をきちんと考えていかない限り、既存のマスメディアと組んだとしても、良い結果は生まれないのではないかと思う。

ところがふと考えてみると、RSSリーダの進化は逆に広告業を殺しかねない。今一部でRSSリーダの全文表示がうんぬんという話が出ていた気がするのだけれど、そうなるともはや元記事に飛ぶ必要はなく、閲覧はRSSリーダを通してのみで事足りる。そうなると、元記事にいくら広告を注ぎ込んでも、RSSリーダは広告を拾わないので、結局無意味になってしまう。

全体的な感想


まぁそんなことを考えながら講義を聴いていたのだが、終わった後に今日講義してくださったメンバー、テレビ局・新聞社・広告代理店・金融という4人の職種を見ていると、沈み行くテレビ局+新聞社、それを冷静に分析しているようで実は自分も危ない広告代理店、そしてみんながアップアップおぼれかけるのを待ち構える金融業、という図式になっているように見えて、あと10年経ったらこの4人の立場は一体どうなっているのだろうと少し気になった。

「あるある」検証番組

CMなしにずいぶん長々と放送していた。テレビ局にとってCM入れずに自社の番組を流すというのは自分で自分の体を傷つけるようなもんなので、その時点でまぁそれなりの努力はしているように見えたのだけれど。

しかし出てくる関係者の顔や声が特定できないようになっていたり、顔が出てても名前やポストがきちんと画面に表示されていないのは、さすがに身内が作りました感が出すぎていた。そこらへん、批判されることを承知だったんだろうか。まぁいまさらどうあがいても仕方ないことだし、と開き直ったのか。

一番面白かったのが、視聴者から寄せられた苦情を紹介するコーナー。
「二週間でやせられると思っていたのに、捏造だと知って呆れてしまいました」
二週間で楽してやせられると思っていたあんたに呆れますよ。あふぉか。
ところでボクサーってかなり短期間に体重を操作するが、彼らの減量方法とかを教えてもらえば良いじゃないか。
あるある見てたおばさんたちはそれ真似すればいいと思う。そしていかに自分らが甘かったか知ればいいと思う。

言葉を「狩る」


番組ねつ造:「食行動は操作できる」放送作家がブログで

この際メディアの大衆コントロール力とかはどうでも良い。問題なのは「問題部分を削除」した点である。
産む機械」の発言のときもそうだったが、何か「問題」」とされる言説があると、それをひたすら謝ったり撤回したりして、無しにすることで解決しようという傾向がある。HPやブログといった形に残るような場所ではそれが顕著で、何かあると問題部分を削除して済まそうとする。
ただ「炎上」の話を知ってる人なら分かるとおり、炎上したブログに於いて問題となっているエントリや文章を消すことは得策ではないし、それ以前に問題部分を削除すればいいものというものではない。なぜなら、そこで発生してる課題・問題に対する解決策が単なる「言葉狩り」で終わって、コンテクストの検証がなされていないからだ。
今回の例で言えばこの放送作家が「日本人の)食行動について情報操作できるってことになる」点について、放送作家自身がそのことを理解したうえで番組を作っていたということ、何故そのような事態に至っているのかという本質的な議論がなされぬまま、言葉が消され問題が無かったことになる。
シニフィアンを消すことでシニフィエも消そうとする行為は、しかしラベリング論的な見当違いである。表層をいじったからといって深層の問題は何も変わらないし、かえって深層の問題を見えにくくし、意図して隠そうとしたのではないかという疑問すら生じさせる。文字通り言葉を狩れば解決するという発想は、売春を援助交際と言いかえる発想と変わらない。表層をいじることで深層にある問題を隠そうとする意図まで援助交際の例と一緒ではないかと勘ぐってしまう。

メディアの「分量」

朝見ていた報道番組で、財政破綻した夕張市の惨状を特集していた。財政破綻に陥ったのは随分前に報道されたが、その結果市民がどんな生活を強いられるのかという「その後」はあまり報道されていなかったため、こうした姿勢はいいなと感じた。
が。小学校中学校が計11校からそれぞれ1校ずつに削減され、図書館も公衆トイレも廃止され、医者もいなくなり産婦人科はなくなり保育園の費用は高騰し、もはや死の街になりかねんとする夕張市の現状が報告される中、画面の右下に同時中継で流れていたのはがけに取り残された一匹の犬の姿である。コンクリートが網目状に打ち付けられた急斜面の一角で立ち往生してしまったらしい。レスキュー隊が出て救出作業だネットだ何だと騒いでいる。それは夕張市についての特集が終わるまで続き、更にはその後も流れていた。
確かその前も既に流していた気がするので、夕張市の惨状と一匹の犬に割いた時間は同じか子犬の方が多いかだった。全国最低の生活と市側が既に言っちゃっているような窮状と勝手に迷った犬が同じ時間テレビに映るというのはおかしいのではないか。報道番組として割く時間の分量を間違っている気がする。
とそのときは思ったのだが、よく考えてみればこれらが例えばYahooのトップページにニュースとしてリンクされていた場合、リンクが張られている時間の差を除けば「タイトル一行とそのニュースのページへのリンク」という点において全く同じである。人が死のうが犬が救出されようがそれはネット上においてはリンク一つで分量は同じなのだ。
新聞と比較すればもっと分かりやすい。社会的に何が重大で何がそうでもないのかを、記事が占める面積で相対的に評価している。ニュースは時間によって評価する。こうしたやり方は、社会的にいったい何が重要なのかを感覚的に把握できる反面、その基準はあくまで報道する側にあり、見る側に判断の主体性はない。報道する側のイデオロギーに操作される可能性もある。
ではネット上のニュースはその重要性を比較することは出来ないのか。単なるリンクの一つ一つとして処理されるのか。僕はソーシャルブックマークが社会的な役割を持つとすればここにあるのではないかと思う。ソーシャルブックマークはテレビや新聞と違い、「何が重要なのか」を見る側が判断し、ブックマークされている量で視覚的に重要度が分かる。ある記事においてそれがブックマークいる数だけ人々が注目しているということであり、新聞の紙面量、テレビにおける放映時間として比較対象になる。集合知というほどではないが、何が重要なのかを知るという点においては、「みんなの意見は案外正しい」を適用してもいい気がする。

新語シンドローム

生活習慣病という言葉が生まれたとき、それまで使われていた成人病の「大人しかかからない」的なニュアンスを消すという名目があったし、それはある程度功を奏した気がする。
ところが「生活」「習慣」という軽い言葉が入ってきたことにより、生活習慣病は文字通り日常生活の中に埋没してしまった。生活習慣のせいでかかるのなら、生活習慣を変えさえすれば何とかなる。別段恐ろしいことではない。みんながみんなそう考えたわけではないだろうが、とにかく言葉の持つ「重さ」は失せてしまった。
それで困ったのはマスメディアである。マスメディアは言葉を消費する。常にトレンドの言葉を見つけ、時に作り出し、日々の仕事のネタにする。生活習慣病が生活習慣の中に完全に埋没したとき、マスメディアは人々の生活習慣に健康という切り口から入り込むための入り口を失った。そこでメタボリックシンドロームの登場である。カタカナにすることで「わけのわからなさ」という重さを言葉に持たせることが出来る。生活習慣の中にある危険性を、不安を、浮き立たせることができる。
こうしてメタボリックシンドロームは再びマスメディアが人々の日常生活に切り込む入り口となり、新しい消費の渦を生む。
健康食品メーカーから広告代理店まで、新しい言葉が出るとそこには新しい消費のラインが生まれるのだ。
逆に言えば、新しい消費を生み出すには新しい言葉を生み出す必要性がそこにはある。消費は言葉に依存している。まさしく「新語シンドローム」とでも言うべき現象。
問題は、言葉が変わるたびにさも概念もリセットされているかのような事態だ。成人病も生活習慣病もメタボリックシンドロームも中身は一緒だということを、それらの用語が使われている大きな文脈を捉えれば分かりそうなもんなのだが、気付かないということは消費者の側が脱文脈的だということだろう。

「市民新聞」は欺瞞か?


ブログでも2chでもない「市民新聞」とは――オーマイニュース鳥越編集長に聞く - ITmedia ニュース

どうなんでしょう。この記事から察するに、「拡大版ライブドアPJ」に落ち着いてしまうような気がするんですが。PJはすでに叩かれまくってますし。
以下引用と突っ込み。

マスメディアのように一方通行ではなく、今までマスメディアに相手にされなかったような市民の声を載せていきたい。子ども学生も、農業をやっている人も町工場の職人も、キャリアも新聞記者も。みんな市民。国民全員が市民だ。

 意気込みはすごいんですが、果たして農業やってたり町工場の職人がわざわざネットのニュースで記事書きたいと思いますかね?インターネットの普及率だけで言えば可能性はありますが、どのくらいディープに利用しているかというとそこまでではない気がする。むしろ結局今ブログ等でさかんに活動している比較的若い層が参加して終わってしまう気がします。

それで終わってしまうならまだ良いんですが、鳥越氏がこのOhmyNewsをブログや2ch(そもそもこの二つを並列にすること自体疑問)と差別化させようとしている点に問題がある気がします。

 

2chはエンターテインメント、娯楽だからそれでいい。これが報道、ニュースと言われた上で嘘だったら大変なこと。2chを見るときは、あそこには本当もあるかもしれないけど嘘もある。そういうもんだ、と思って見ているから成り立つ。

しかし、2chに限らずネットの世界、時にはリアルの報道においても重要なのはこの「あそこには本当もあるかもしれないけど嘘もある。そういうもんだ」という意識だと思うんですが。新聞やテレビもかなり嘘入ってますよ。

そしてさらに

記事が100件きたら100件全部裏を取るというわけではない。

というのだから問題です。このままだと、

1.まず記者に興味を持つのが普段からブログやってる人
2.普段のブログ感覚で記事提出
3.そこまで厳密じゃないチェックを経てウェブ上へ
4.「ニュース」として出されるので、見てる人がまんま信じる

 もちろん記事の中身は玉石混合なんでしょうが、鳥越氏の論調だとみんながみんな記事を「玉」だと勘違いしかねません。さらに彼は市民記者に記事を書いてもらうためのモチベーションとして、専門部記者の記事を挙げてます。要はOhmyNewsの「中の人」の記事なんでしょうが、そうすると今度はその「中の人」がどのような記事を書くかというによって、市民記者の記事内容も恣意的な影響を受けかねません。これでは「市民記者」である意味がない。
 そしてその記事の中身は上記の1〜4の流れの通りなら、サクサクっと信用されて、浸透する。下手をすれば世論のミスリーダーになりかねない。

 鳥越氏の企画していることは今までネットの情報を見る際にあった「所詮ネットだから」という意識の消えた、無駄な権威付けをしただけの危うい存在をネット上に作り上げようとしている気がするんですが。どうなんでしょう。