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流動化に対するヨーロッパと日本の姿勢の違い―バウマンを参考に

政治

ジグムント・バウマン「リキッド・モダニティ」の読書日記として書こうとしたのだが、案外長くなってしまった。

リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会


まだ第二章まで(+第五章)しか読んでないことをあらかじめ断っておく。

解放と流動化

後期近代を分析した本としては、大変読みやすくかつ優れた本だと思う。
バウマン自身は、資本主義の徹底が行われた後期近代をpost modernity とは呼ばず、liquid modernityと呼ぶ。それは前期近代と後期近代が決して断絶したものではなく、文字通りsolidで堅固であった近代が、流動化してliquidな社会になったと考えているからだ。
近代は、封建的な「身分」を解体した。解体しただけではなく、個人を新たに「階級」という秩序の中にはめなおした。封建時代から近代における「解放」は、真の解放ではなく、あるグリッドから別のグリッドに全体の設計図を変えただけであった。依然として、社会全体はsolidなままだったのである。
ところが近代の後期になると、そうした「階級」に基づいた秩序すらも消える。人々は従うべき秩序を失い、準拠すべきは理想化された自己に変わった。「自己実現教」の忠実なる信者として、決してたどり着かない「あるべき自分」に向かい疾走し、時にそれは迷走となる。一度目の「解放」は「はめ直し」であった。二度目の「解放」は、あるべき姿に向かう「自由」と、あるべき姿にたどり着かない「無力感」を同時に人々に配分した。

いまや、個人が新しくおさまるべき場所は、準備されておらず、たとえあったとしても、居場所としてはまったく不十分で、個人がおさまりきるまえに消えてしまうような、たよりない場所でしかない。……解放された個人が進みつつある道の果てにも、新しい居場所は見えてこない。*1

バウマンは、社会がこうした状態に陥っている原因を、「形式上の個人の現状と、事実上の個人―運命をみずから決定し、真の選択が出来る個人―になれる見込みのあいだ」*2にある巨大なギャップだとしている。そして「ギャップを埋めることが出来るのは、大文字の政治だけだ。問題のギャップは……公的空間、公共広場(アゴラ)が消滅したことによってあらわれた」*3と述べている。

公共の言葉を回復させるヨーロッパ・仲間の言葉を守る日本

面白いのは、いまや問題なのは公的空間による私的空間の侵略ではなく、私的空間の公的空間による侵略である、という論点が、ハンナ・アーレントに大変よく似ている点である。僕は思想史に詳しくないのでそこらへんつながりがあるのかどうか分からないが、近代を批判する際、「アゴラの喪失」というのはよく持ち出されるテーマらしい。ヨーロッパ人にとって、アゴラの喪失はもはやトラウマの如く、数千年の時を越えて脳裏に刻み込まれているようだ。それは「喪失の記憶」*4として、哲学を通じ受け継がれている。「喪失の記憶」は、一種のノスタルジーである。過去が過去になったがゆえに、現代は現代になった。理想は過去にあり、現在は理想ではないのだ。

一方日本では、流動化した近代に対する「ノスタルジー」は、昭和三十年代的な、隣近所的コミュニティとして呼び出される。暖かく、人々の絆があった時代が理想であり、現在は過去ではないので理想ではない。*5

ヨーロッパ人が、個人の言葉を公共の言葉に、大文字の政治の言葉に置き換えてくれるアゴラを「喪失の記憶」としたのに対し、日本人が、個人の言葉を仲間の言葉に、小文字の政治の言葉に置き換えてくれるコミュニティを「喪失の記憶」としたのは興味深い。バウマンは個人の言葉を大文字の政治に変える集団的行動としてデモを挙げていたが、日本では違う。日本における集団的行動は、始めは公共の言葉を操り大文字の政治を目指しても、いつしか仲間の言葉を使い小文字の政治へと移行してしまう。革命という大文字の政治の言葉を掲げた人々が、いつしか総括という仲間の言葉で小文字の政治を行い始めたように。

その意味で、ヨーロッパのアゴラ=個人の言葉を公共の政治の言葉に翻訳する場所は、確かに失われてしまったかもしれないが、日本の隣近所的コミュニティは本質的には失われていないと言える。失われたとされているのは些細な外壁であり、その中心的な構造、すなわち個人の言葉を仲間の言葉に翻訳する構造はまだ残っている。問題はそれが適切な場で、適切な仲間を経ているかどうかである。変わったのは誰が「仲間」なのか、どこまで「政治」を適用すべきなのかという、その範囲である。
おそらく現代日本においては、「家族」がその範囲として強く選択されるようになっている。「子供」と「学校」に関する言説にそれは顕著に現れる。学校は現代日本における個人の言葉を仲間の言葉に翻訳する格好の場になっている。仲間が「家族」にまで縮小されてしまえば、政治の対象が家族にまで縮小してしまえば、学校の公共性を踏み倒して子供のために無理難題な要求を突きつけることも、正当化される。また子供の安全を守ると称して排他的なパトロールを行うことも正当化される。

ヨーロッパにおいて、流動化への抵抗はデモや暴動といった、公共の言葉をラディカルに回復しようとする動きとして現れる。日本では、守るべきものをより限定的にすることで、流動化に耐えようとしている。大きな石では川の流れに負けて砕かれるが、もともと小さな石ならば流れを受け流すことが出来る。流れに対抗するのではなく、自身の抵抗を減らすことで解決しようとしている。その「小さな石」に選ばれたのが、「家族」なのではないか。日本人が大好きな「暖かい、絆のあるコミュニティ」は、その構造を若干マイナーチェンジすることで、喪失を免れているのだ。

*1:p.44

*2:p.51

*3:p.51

*4:宮台真司が使うそれとは違う

*5:もちろんアゴラにせよ昭和三十年にせよ、象徴としての像であって実際がどうであったかは関係ない。理想とは違う「事実」を突きつけられても、いずれ新たな「喪失の記憶」が作られるだけだ。