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『思想地図 vol.2』レビュー

遅まきながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

そして遅まきながら、『思想地図』第二号。どの論考も面白かったのだが、全部レビューする気力がないので、5本ばかしピックアップして紹介させていただく。

本書は「特集:ジェネレーション」となっているが、実質「ジェネレーション」パートと「インフラ」パートに分かれている。これを編者の二人になぞらえて北田パート・東パートと名づけてもいいのだが、若干互いのセレクションが入り混じっている感じもあるので、適切ではない。

「世代間対立という罠 上野千鶴子インタビュー」

 『SIGHT』誌上で掲載された東浩紀による上野千鶴子の『おひとりさまの老後』への批判に対する反論。……を北田暁大がインタビューアとして聞き出す、という若干ねじれた構図になっている。しかし上野千鶴子のインタビューや座談会・対談の書き起しは、例え名前を知らされていなくても読めば彼女のものだとすぐ分かる文体である。本田由紀が慄くのも分かる気がする。
 彼女の論旨は極めて明確で、あの独特の口調と合わせて正月ボケから覚めるにはちょうど良い。まず東は『SIGHT』誌上で、『おひとり様の老後』に対し、『言論は世代を超えられないのか?』というタイトルで以下三点の疑義を突きつけた。

  1. 団塊世代の単身女性は、自分たちの代で作り上げた財産を後代に残すことを考えず、個人の幸福のために使うべきだというのは、下の世代からすれば既得権への居直りではないか。負の遺産を残した(cf.ロスジェネ)者たちの態度としては自分勝手すぎる。
  1. 団塊ジュニアの世代の老後について、「将来の保障制度に期待する」と突き放すのは、むしろ団塊世代が超高齢者として生きながらえている状態になったとき、ブーメランとして跳ね返ってくるのではないか。
  1. 上記のようなことを、上野氏は分かった上で戦略的に振舞っているのではないか。そこでは団塊世代と団塊ジュニアという世代対立が持ち込まれ、下の世代への不当な「自己責任」の押し付けが介在していうる。

 これに対して上野は「事実認識を踏まえていない」と一蹴する。そもそも団塊の単身女性が属するコーホートは、近代化に伴う地方から都市への移住とその移住民たちによる親世代への負の贈与(都市で稼いだ金を地方の実家へ送る)が一通り終了し、正の贈与が無いが負の贈与もなかった人々であると。それは遺産のみならず学歴に関してもそうである。(団塊の世代は両親の経済階層と学歴の相関が弱い)
 つまり団塊の世代は、社蓄となり、「一生を抵当に入れる」ことでゼロから財産を築き上げてきた人々であり、そもそも親世代からの正の贈与を当然と考えている団塊ジュニアの世代とは事情が違う、と上野は指摘する。また経済的な好景気不景気の波はそもそも選んで生まれることができるものではなく、そうした「運」の部分にまで責任を取れといわれても困る、と。
 上野が毎度指摘することだが、今のロスジェネにしろ格差社会にしろ、類似の問題はずっと以前から「女性」「外国人」といった変数が挟み込まれた上で山積していたのだが、「男性・高学歴」がワーキングプアの状態になりうる、という状況になって初めてそれらが社会問題化された。この欺瞞に気づけと彼女は怒る。そしてそれらは結局のところ「男性・高学歴」な正社員・連合および彼らと共犯関係を結んだ財界・政府に帰結する問題であり、「世代対立」に持ち込むのはまさに彼らの思う壺であると言う。
 北田が東の問題意識を上手く使いながら、上野の議論をコストパフォーマンスよく引き出している。東の議論はそもそも彼自身の言葉というより「こういう風に言っている人もいて、彼らのことを考えなくていいのか」という形で外部言説を経由させているところがあるので、果たして上野の言葉が本来届くべき人に届いているのかは微妙だが、それを抜きにしても非常にコンパクトながら良いインタビューだった。

鈴木健 「ゲームプレイ・ワーキング 新しい労働間とパラレルワールドの誕生」

 一応「ジェネレーション」の枠には入っているのだが、「インフラ」の方に入れてしまってもいいんじゃないか、まぁ著者も著者だし、と思う論文。
 ここで挙げられている「ヒューマン・コンピューティング」という概念は非常に興味深い。言ってしまえば機械による処理と人間の手による処理のハイブリッドである。それはこれまで行われてきたような単なる作業の「住み分け」ではなく、コンピュータはそうした人間にしか出来ない作業は人間に任せる、ということそのものを最初に前提として組み込まれている。
 そしてそこで「人間がやる作業」というのは、同じ作業にしてもそれをどうコンピュータが「見せるか」でやり方が変わってくる。フォーディズムは人間性の疎外を批判されたが、例えば同じような単純作業を行うにしても、それをあたかもゲームのように見せてしまえば、労働の苦痛は軽減される。というか苦痛にすら思わなくなる。それを鈴木は「ゲームの労働化」と呼び、自分の行為とそれが世界にもたらす結果(意味)との連関意識が薄れる、「行為と意味の間接化」をもたらすとしている。
 一方で「行為と意味の直接化」も進んでいる。アントレプレナーと投資家を直接マッチングさせる金融サイトは、まるでMMOのインターフェイスのようだ。そこには複雑な制度や意味のシステムは介在せず、投資したい⇔されたいという人々の思いが直接つながっている。彼はそれを「労働のゲーム化」と呼ぶ。
 鈴木はさらに話を進め、電脳コイルのような「拡張現実」とも言える「現実の複数化」が今後ますます進展していくと述べる。それは<現実>の解釈の複数性がどんどんとあぶりだされていくプロセスでもある。そうした事態は、見方によっては「悪い」ものだろうし、見方によっては「良い」ものだろう。すでにその時点で複数化がスタートしているのだ。

田村哲樹「民主主義のための福祉 「熟議民主主義とベーシックインカム」再考」

 ロスジェネ的な議論に慣れ親しんだ者にとって、あるいはそうでなくとも、「福祉」というタームはすなわち「貧困」という言葉とセットであるかのように思われる。逆に言えば、「貧困」でない者の立場から(その多くは政治的な)言説を放つとき、「福祉」の必要性は梯子を外される。
 しかし本論文は福祉という概念が、「熟議民主主義」という、一見すると理想論のようにしか思えない概念の、成立要件として語られている。「異質な他者との出会い/への開かれ」というのは、古今東西崇め奉られてきたが、しかし現実的な問題として考えたとき、異質なモンスターペアレントとのコミュニケーションは「対策」であるし、子供のケータイには「フィルタリング」で対処せざるを得ない。よもやゲーテッド・コミュニティなどその極北にあろう。
 田村は、ギデンズの「積極的福祉論」を出発点に、福祉を「民主主義への関与の資源提供」として議論していく。ただし従来のいわゆる「第三の道」的な、リスクを引き受ける代償としての福祉、という位置づけは、福祉を労働市場との関係で論じている。しかし労働市場の原理は基本的に政府の介入が難しく、コントローラブルではない。そこを労働市場との関係から田村は切り離す。ハーバマスを用いながら、彼は社会的基本権、つまり福祉によって担保されるべき権利を「私的自立と公的自立の同時的な保障のための条件」とする。私的自立とは個人が各自の幸福の追求のために行動することであり、公的自立とは熟議的なプロセスに自ら参入することである。
 そして田村はこうした熟議的民主主義の成立要件としての福祉を実現する手段として、BI(ベーシックインカム)を提示する。そこでBIが果たす役割は、格差の解消ではなく、民主主義の参加のための「時間」を作り出すことである。熟議的民主主義の「魅力の無さ」は、かかる時間と得られるリターンの不釣合いさにある。彼はそうしたコストをいかに下げていくか、という点に力点を置いているのだ。
 単なる理想論だけでなく、理想の理想たるゆえんに目を配りながら展開する議論は、しかしかなり読みやすく、「入門編」とも言える。派遣村のニュースに眉をひそめる方々にぜひ読んでいただきたい論考でもある。

座談会(東浩紀 北田暁大 濱野智史 西田亮介)「ソシオフィジクスは可能か」

 別名「SFCとはなんだったのか問題」と揶揄されそうだが、ISEDの「設計研」的な方向性を再検討するという意味で興味深い座談会。工学系の話にとんと疎い僕個人としては、座談会中「昭和からやってきた」と自ら自嘲する北田氏に勝手に心情を重ね合わせて読んでいた。
 色々あれこれ話しているのだけれど、個人的に面白かったのは「正規分布」と「ベキ乗分布」の話。いわゆるフーコー的な生権力、ここでは「正規分布」的な平均値を用いた管理とされている、が今や意味をなさなくなっており、代わってベキ乗分布的な集団を捉える技術が有効になっている、という話。つまるところ監視カメラとマクドナルドの椅子、規律訓練と環境管理の話なのだが、それが監視カメラとマクドナルドの椅子以外のレイヤーで具体的に語られている辺りが面白かった。
 使われている概念や出てくるコンセプトそのものは『思想地図』の読者ならそこまで目新しいものはないかもしれないが、それらがどういった連関を持っていて、具体的なレベルでどう表出しているのか、ということをきちんと確認させてくれる座談会。たぶん僕のようなほどほどの門外漢が一番楽しめる。

濱野智史 「ニコニコ動画の生成力 メタデータが可能にする新たな創造性」

 なんというか、「濱野先生の本気が見られるのは思想地図だけ!」と言いたくなってしまう論考である。冗談だが。タイトルの「生成力」に「ジェネレイティビティ」とルビが振ってある辺りからすでに色々と香ってくる。
 議論のメインはタイトルから想像できる通り、ニコニコ動画の「タグ」である。ニコニコ動画のタグは、本来のメタデータの役割、オブジェクトレベルの概念を整理するという役割から大きく外れ、独特の進化を遂げている。それらは各ユーザーが自由に編集できるという性質上(ただし投稿者によるロックもある)、時に激しいタグの書き換え競争が発生する。この多元的なメタデータの展開は、独自の淘汰と拡散の秩序を形成し、より多様な別の「N次創作」への繋がりをもたらす。それがニコニコ動画という環境における「生成力」を高めていると濱野は指摘する。
 ちなみに濱野は論考の冒頭で「創造力」と「生成力」を分けているが、終盤でそれらの区別を再度取っ払う。それは「創造力」、すなわち作者の作者性が持っていた、各テクストの「訂正可能性」が、一人の作者の絶対的な権力によってではなく、実は「タグ」という確定記述のクラウドによってもまた担保されているからだ。
 途中、「「タグ戦争」の量子力学的効果」という節があったり、「生成流転」に「フルクサス」とルビを振っていたりと、結構トバしている部分は多いのだけれど、最後はきちんと議論をまとめるあたりああ濱野さんだと思う。中二病スレスレまで膨れ上がった議論が、するすると収斂していく様子は読んでいて爽快感すらあった。

その他

 ほかにも森直人「「総中流の思想」とはなんだったのか」や西田亮介「<社会>における創造を考える」なども面白かったのだが、これは個人的な興味関心と強くシンクロしていた面白さだったので、また別途『思想地図』という文脈とは外した上でエントリにしたい。

 ちなみに、六月に新宿・紀伊国屋で行われた「公共性とエリート主義」のシンポジウムが、文章化されて載っているかと思ったらなかった。東+北田、大屋雄裕笠井潔による「再帰的公共性と動物的公共性」がそこのポジションに入っているのかなと思うのだが、そう考えると中途半端さは否めない座談会だったかもしれない。地に足の着いた論文もあれば時代の10歩くらい先を歩きまくっている論文もあるのが醍醐味なこの本の中で、議論の射程が浮ついているようにも思えた。個々の論者は面白いのだがそれじゃ各自の本読めばいいよね、で終わってしまうので。単に僕があの紀伊国屋のカオスなシンポが文字になったらどうなるのか確認したかっただけかもしれないが(というか文字に出来ないから載ってないのかしら)。