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生産性が高い

「アイデンティティ」という魔窟

社会学

行為と意識を結びつける難しさ

ゼミ論や卒論用に本を読んだり文を書いていてよく思うのは、「アイデンティティ」というのはかなりパンドラの箱に近い言葉だ。これほど現代の社会を表すのに多用され、かつその意味が統一的でない用語もない。もちろんそれなりに学者による定義はあるが、人によってかなり異なる。

先月22日に東工大で行われたシンポジウムに関し、東浩紀は事前のブログでのエントリでも当日の発言でも、「アイデンティティとかの話はしないでいいよ」という趣旨を述べていたが、そう言わせるほど「アイデンティティ」という言葉の持つ磁力はコントロールしがたいものがある。

アイデンティティとは何かをここで議論しているとおそらく本一冊が書けるし既に無数の書籍がそのために出版されているので、その話はしない。ただ自分が所属している都市社会学のゼミでは、よく個人があるコミュニティに所属する際の意識として、アイデンティティという言葉がよく出てくる。
ただコミュニティとアイデンティティの関係性に絞っても、その用語の扱いの難しさは付いて回る。まず個人がそのコミュニティに所属していることでアイデンティティなるものを感じているという話があるとして、それをどうやって観察するのかという観察可能性の話が持ち上がる。個人がどれほど深くそのコミュニティにコミットメントしているのか、その深度を計る事で観察できそうな気もするが、コミットメントとアイデンティティは必ずしも相関関係ないしは因果関係にあるとは言えない。コミットメントは個人⇒コミュニティというベクトルだが、アイデンティティはコミュニティ⇒個人、つまりコミュニティから個人が受け取るものであるからだ。コミットメントという「行為」からだけでは、アイデンティティという「意識」のレベルにまで踏み込んで分析することは、難しい。

「政治」とアイデンティティ

先程の東の話、富の再配分の話に無理やりひきつけると、個人的には富の再配分としての政治にアイデンティティの問題は確かに絡めなくても良いと思う。市場的装置が解決してくれるかどうかは別として、「行為」のレベルから判断できない「意識」の問題を政治に持ち込むのは、それこそパンドラの箱を盛大にぶちまけることに他ならない。

ただしそれとは全く別の次元で、アイデンティティの問題は解決する必要があるとも思っている。NHKの「ワーキングプアⅢ」に出てきた青年は、ゴミ漁りで生計を立てていた状態から道路の掃除の仕事に就いたあとも、完全に「社会復帰」したとは感じていなかった。それは端的に家がないというのもあるだろうが、「社会人として認められた」という意識が持てないからと語っていた。再分配の話は時にこうして承認欲求としてのアイデンティティの問題と絡んでいるのでややこしい。この場合はコミュニティへの所属の話ではないけれど、それでも彼に必要なのは生活のためのお金と、承認欲求を満たすことなのだろう。

そうしたとき、彼が何を持ってして「承認欲求が満たされた」と判断するのか。もし真面目に政治がアイデンティティの問題に手を出すならば、それをあるコミュニティへのコミットメントといった行為のレベルから判断するのは難しいと書いた。ギデンズなんかを持ってくれば、「日々のルーティーン」が回復することで満たされるのだろうけど、あれはルーティーンから落ちた人間が再びアイデンティティを確保するのが困難という側面を持つ。何らかの形で意識を定量的に観察出来る手段が必要になるのだが、今のところそういうのが思いつかない。

いずれにせよ、今のところ僕自身は「アイデンティティ」という言葉を使うのは割と慎重になっているし、また同時に向き合う必要がある言葉だとも思っている。