絶倫ファクトリー

生産性が高い

メタユートピア/ゾーニング/テクノロジー

以下現在書いている原稿用のメモ。

メタユートピアとゾーニング

メタユートピアという言葉がある。ロバート・ノージックによる論が有名であるが、リベラルな社会においては多様な価値が混在しており、人々は同じ価値を認め合うものどうしが自発的な共同体を作り、すみわけを行う。そしてそのことを認める包括的な社会の存在をメタユートピアと呼ぶ。
メタユートピアは、その表象に目を配ればゾーニングと大差なくなる。ゾーニングもまた、社会設計として同じ価値を共有するもの同士の結合とそうでないものの分離を容認する。

「公共性」論

「公共性」論

この本における稲葉のメタユートピア論によれば、両者における決定的な差は、管理人の有無と言えるかもしれない。ユートピアにはいざとなったら社会の全体性―生活世界に対する「システム」―にコミットする「管理人」たちがいる。ところがゾーニングには、どうゾーニングするかを決めるデザイナーはいたとしても、その後の全体性の確保については想定されていない。
稲葉は「公共性」を、生活世界とシステムの間の緊張関係だとしている。個人が自分の認知限界を超えて他者と協調し、不可視なシステムに再帰的にコミットしようとするためのその条件。だとするならば、メタユートピアにはごくわずかながらもそうした公共性を持った人間が存在するが、ゾーニングの思想において公共性を担保するメカニズムは、必ずしも自明ではない。

多様な価値の共存を認めることで、その先どこに行き着くのか。宮台真司はそれを「島宇宙化」と呼び、バラバラの共同体の間に断絶を見出した。一方で東浩紀は(『「公共性」論』における稲葉的解釈を挟めば)公共性の必要性そのものを梯子外しする。彼はシステムへの再帰的なコミットの必要性を疑う。すでにシステムは生活世界を十二分に侵食しており、再帰的ならずとも、「動物」的に生きようとも我々はシステムに「自然に」コミットしているのではないか、と。

宮台は共同体間の断絶を生み出すゾーニングを否定するが、少数のエリートによるシステムへのコミット、それによる社会全体の管理という図式は否定していない。一方で東浩紀ゾーニングをデザイナーが正しいデザインを行えば、という条件付で容認しているとも言える。

メタユートピアか、ゾーニングか。少数者によるシステムへのコミットか、動物によるシステムの回転か。
どちらが良くてどちらが悪いという話をするつもりは、ここではない。ただしどちらにも共通する問題が存在する。

ユートピアの破壊/からの離脱―公共性とテクノロジー

宅間守はユートピアの破壊者であった。小学校というユートピアを、自分の住むユートピアを抜け出し、破壊した。彼の住んでいたユートピアは、少なくとも彼にとっては不全を起こしていた。だが彼はそれをどうにかする手段―ユートピアのシステムへのコミット手段―を持っていなかった。本当に持っていなかったのかどうかはわからなかったが、真っ当な方法で社会に参与することを想定しなかった。代わりに、異なる価値を持つユートピアを、小学校という共同体を破壊する道を選んだ。
彼はユートピアの破壊者であると同時に、ユートピアからの離脱者でもあった。「脱社会的存在」である。この国がメタユートピアなのかゾーニングなのか何なのかはわからないが、宅間守はメタユートピアの管理人による手当てから漏れた者であり、動物として生きるにもまた満足し得ない者であった。

システムへのコミット手段を失い、かつそのことに気づいてしまった者。そうした者はその共同体から抜け出すか、自分の共同体に八つ当たりするか。宅間守はその両方を同時に選択した。だからこそ犯罪史上に名を残す稀有な存在となったのだが、たとえ両方の選択肢を一気にとらずとも、どちらかの方法で、システムへの再帰的なコミット可能性―「公共性」―の喪失を顕す者は多くいる。

こうした人間への手当てを、メタユートピアもゾーニングも、そのままでは解決できない。そこで投入されるもののひとつが、テクノロジーだ。

ただしこの記事のような使い方では、根本的な解決にはもちろんならない。「セキュリティ」は所詮共同体の壁を引き上げて、ユートピアの破壊者の矛先を別の共同体へと変えることしか出来ない。そして共同体内部からそれを破壊しようとするものには対処出来ない。あくまで宅間のように「抜け出し」「破壊する」二つの選択肢を取ったものにしか、効果はない。
必要なのは、「公共性」を喪失した人間への手当てであり、システムへのコミット可能性の提示、ないしは喪失感そのものの消去である。痛みの原因になっている病を治す薬の処方箋を書くのか、痛みそのものを麻酔で消すのか。
この国の社会の流れとしては、麻酔を打つ方向に向かっているように思われる。その一方で、処方箋を求める声も、次第に大きくなっているように見える。少なくともテクノロジーは今のところそのどちらにも大して寄与していないように思われる。痛がっている人間がどこかにいることを、我々に忘れさせようとしているだけだ。

知的情報メールマガジン「αシノドス」読みたい!

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四月から、芹沢一也氏と荻上チキ氏が結託して「αシノドス」というメーリスを立ち上げるらしい。
荻上氏のブログで
「αシノドス」配信開始&トラックバックキャンペーン受付中! - 荻上式BLOG
トラックバックキャンペーンをやっているらしいので、乗ってみた。
総量7万字(削るのかな?)と聞くとかなりボリュームがある気がする。実際どのくらいの感じなのかは分からないが。

彼らが今なぜ思想についてのメーリスを立ち上げようと考えたのか、それはここに書いてある。
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ここで芹沢氏が

芹沢: 今は「運動」の時代なんですよ。「運動」の時代においては、現場や「運動」の力学が強くなって、どうしても思想や理論は軽くみられがちになる。あるいは従属させられてしまう。

と語っていたのがかなりぐさっときた。自分も最近はどうやったら人が動くのか、という「動員の言葉」に興味があるといろんな場所で発言してきた。そこに通呈するのは、思想や理論を道具的に使って社会を変えるにはどうすれば良いのか、という意識である。

しかし荻上氏がその後語るように

荻上: (中略)しかし、そこで「運動」のために召還された思想的言説がベタに思想として成熟しているかのように捉えてしまうと、ある種のクリシェに陥ってしまったり、ネガティブな帰結を招いたりする可能性がある。

というのもまた真実だろう。

こういった自戒も込めて、「αシノドス」を読ませていただきたいと思う。

「友だち地獄―『空気を読む』世代のサバイバル」

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

2006年度、僕がゼミで御指導いただいた先生の本である。渋谷の紀伊国屋をほっつき歩いていたら見つけたので購入した。*1

授業二つにゼミ一つを取っているので、本の内容自体は割りと聴いていたものと一致するが、ケータイ小説など新しい事例も扱っていて、確認のためにも役に立った。

本書の要旨

「友だち地獄」という煽り気味なタイトル*2の通り、現在の若者の友人関係は希薄化しているのではなく、むしろ友人関係に過剰に没入し、その関係性を維持するのに必死になっている、という内容である。
現在の若者はコミュニケーションを円滑に進めるため、表層的な争いやいざこざを極力回避し、お互いが傷つかないような「優しい関係」を維持している。そしてその「優しい関係」の維持に与しない人間は、「KY」であるとされ、徹底的に嫌悪される。
ではなぜ彼らはそうした「優しい関係」の維持に奔走するのか? 彼らは「純粋なもの」にあこがれる。ひきこもりの人々が使う「純度100%の自分」という言葉に見られるように、自己の中に「純粋でピュアな自分」を求める。それは身体的で、生得的で、本質的な自己への欲求である。しかし自分の身体的で感覚的な欲求に従えば従うほど、他人との違いは際立ってくる。彼らはそうした違いの存在を認め、一方でそれが顕在化しないようにするため、「優しい関係」を維持したがる。高度なコミュニケーション技術である。
彼らが「優しい関係」を維持するのにはもう一つ理由がある。彼らは自分の中に眠る「純粋でピュアな自分」を探しているのだが、それらは自分で探し当てるだけではなく、他人の承認を得ねば見つけたことにはならない。そして身体的、生得的な感覚に基づいて行動する際、人間関係のゆがみによって自分が否定されるようなことがあれば、それは「本当の自分」を否定されることになりかねない。「優しい関係」を維持することは、高度なコミュニケーション技術であると同時に、自己への承認を曲がりなりにも調達する手段でもあるのだ。

こうした主流の論旨の横に、傍流としてケータイ小説や青春小説、ネット自殺などの事例が絡んでくる。様々な事例をスパスパと斬っていく様子は、非常に軽快であり、読むほうも思わずうなづいてしまう。

一方で、若者の行動に対して彼らのメンタリティを分析することで一定の理由を与えているものの、ではなぜ彼らがそのようなメンタリティを持つようになったのか、例えばなぜ彼らは「純粋な自分」を探すようになったのか、という根本的な説明は若干弱い。大澤真幸などの理論を多用してはいるが、それも根源を説明する理論にはなっていない。

「本当の自分」を求めて

「純粋でピュアな本当の自分」がどこかにいるはずだ、という感覚に基づき現代の若者は行動している、という指摘は、速水健朗の「自分探しが止まらない」と共通している。ではなぜ我々は「本当の自分」を探してしまうのか? そして「本当の自分」などというものは現実に存在するのだろうか?
客観的に確認可能な資料で言うのならば、よく挙げられるのが1980年代以降の教育現場における「個性」重視型教育への転換である。ただしそれは経済的な変化に対応するための要請であり、いじめやリストカットを誘発するようなレイヤーにまで踏み込むものではなかったはずである。だとするならば、教育現場のみならずそのほかの領域でもそうした個性への志向を煽られた結果なのだろう。(ここら辺は特に土井先生の前著
「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
に詳しい)
そして問題なのは、個性を煽られることでも自分探しをすることでもなく、煽られた我々が抱く「本当の自分」像と現実の自分に、いかんともしがたいギャップが存在し、そしてそのギャップはいつまでも埋められることがない、ということだ。いつまで経っても見つからない「本当の自分」に振り回されて「優しい関係」の維持に奔走する姿が現実のものだとしたら、その責任は虚構のはずの「本当の自分」をベタに信じ込ませようとした側の人間たちにある。

文化系トークラジオ LIFEの「自分探し」のpart4辺り(2008年3月9日放送「自分探し」part4 (文化系トークラジオ Life))で挙げられていた「自己啓発」などもまた「本当の自分」を探すための手段である。番組中では自己啓発の効果を強調するメールを送ってきていた人もいたが、それは「本当の自分」というにんじんを目の前に垂らされて疾走する馬に過ぎない。もちろんそれで他の馬を追い抜き、レースに勝つ馬もいるだろうが、大抵の馬はにんじんが手に入らぬことに疲れてしまい、走るのをやめるだろう。そこでなお「走れ」というのは、はてな界隈の言葉を使えば「マッチョたれ」ということに他ならない。企業戦士が鞭を打たれて虚構のにんじんを追い求めるのはまだしも、果たしてそれは学生に対しても当てはまる言葉なのだろうか?

もし本当に我々が「本当の自分」などというものを持っているとしたら、それは極めて生得的なものであり、「探す」などということをしなくても勝手に出てくるはずである。にもかかわらずそれを探し続けねばならないということは、やはりそれは虚構であり、虚構であるということを認識した上で上手く取り扱うのがよりよい選択肢だと思う。ただそうしたアイロニカルな姿勢を実際の教育現場に持ち込むことは難しい。難しいが、しかし本書の内容が事実ならば、それを乗り越えなければ問題は今後もより拡大するだけになるだろう。

*1:ところでうちの大学の一番大きな書籍部にはなぜかこの本置いてなかったんだけど。どうなってんの?

*2:土井先生にしちゃ煽るなぁと思ったら本人が付けたのではないらしい

「表現の自由」というタームは耐用年数を過ぎた気がする。

しばらくじっくりPCに向き合う時間が無かったので、今更児童ポルノ関連の議論を見返してみた。*1

その中で気になったのが、何箇所かブログ上で散見した「欲望は裁けない」という命題である。確かにある種の性的な欲望を持ったことが外部に発覚したとして、欲望そのものを罪にすることは出来ない。少なくとも現行の制度では。
しかしこの命題が自明であるからといって、欲望の「管理」もまた不可能であるとは思えない。欲望そのものを罪にすることはできなくとも、もう一段階クッションを置いた形で、人間の性的な欲望を管理しようという試みは、既に幾度も歴史の中で繰り返されてきた。欲望の対象物を保護したり、欲望の発露を制限したりというかたちで国家は欲望に規律訓練を施してきた。欲望は、その外堀を次々に埋められた結果、「規範」という縄によってきつく縛られている。こうした歴史を踏まえるならば、「欲望は裁けない」という命題に乗っかり泰然としている間にも、しっかりと規律訓練は進むだろう。

こうした「欲望の管理」は、当然ながら人間の「自由」とトレードオフな関係にある。女子高生の身体を金で買って欲望を満たす「自由」はない。では女子高生に「見える」性的な画像を所持する自由は? 「管理」とは、こうした曖昧な部分に強引に境界線を引き、善と悪の選別を行う作業でもある。
当然こうした動きに対しては、ほぼ毎回「表現の自由」というタームが付いて回る。過去のわいせつ物に関する議論の中でも幾度も登場してきた。ところが、もはやこの国において「表現の自由」というタームはもはや耐用年数を過ぎてしまった感がある。この国で人々があらゆる利害を通り越して団結できる唯一の関心事は、「セキュリティ」であり、このタームの前には今や全ての論理が硬直する時代となった。*2そして我々が現在享受する「自由」もまた、この「セキュリティ」の論理の中で認められたものだけになっている。そのような中で、「表現の自由」というタームは、セキュリティのロジックの前にはおそらく通用しないだろう。もちろん表現の自由が守られることは大事だが、それの持つ論理的な強さ、つまり人間を動員するための「政治の言葉」としてはもはや力を失っているように思われる。

もし性的な欲望の管理に対抗する手段が必要だとするならば*3、我々は「表現の自由」というタームに代わる言葉を探す必要がある。それが何なのか、ということを僕はここではっきりと提示する能力は持たないが、まずこうした意識を出発点にしないといけないのではないか。

*1:細かくいうと主に問題になっているのは児童ポルノの単純所持の禁止と準児童ポルノという概念についてのようだが、ここではすこし問題意識を広げて議論する。

*2:身体の保護という私的なレイヤーの問題が、公的なレイヤーの問題に立ち上ってくるというのは決して新しい話ではない。だが少なくとも今までは私的なセキュリティの問題は「前提」とされており、社会がセキュリティを公的レベルの問題として語るということは、それを「前提」だと認識しなくなったということだ。それがはっきりと目に見える形になったのが911である。

*3:そもそもこの条件を満たすのが難しいかもしれないけれど。

小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと「ある意味で」思うよ。

承前
白痴日記
小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと「本気で」思うよ - logical cypher scape

「犯行予告」という行為*1について、id:Muichkineは「均衡」という概念を使って、意識やコストの面から「特に問題ないんじゃない?むしろ犯行予告ガンガンやっても、今ある均衡が別の均衡に移るだけじゃない?」と述べている。

ただし初めに見てきたように犯行予告には悪意も情報もない。
悪意も情報もないのに捕まるとか意味わからん。いや、実はわかるけど。
単にそれが規範、別の言葉で言えばナッシュ均衡になってるだけでしょ。

これは唯一の均衡ではなく、揺さぶれは動く均衡だ、みんながみんな一斉に犯行予告をし始めれば、これはもう対処のしようがないわけだから別の均衡点に移るしかなくなる。その均衡点とは統治者は何も対処しない、被統治者は犯行予告しまくるという均衡だ。


白痴日記

そしてid:sakstyleもまた、「自由」の面からこの理論に賛意を示している。

今回の小学生による犯行予告にいたっては、どうもニコニコ動画のコメント欄でなされたらしいのだけど、それが取り締まられたというわけだ。

このような取り締まりは、はっきりいって馬鹿馬鹿しい。

正直、ネットで犯行予告する奴は単なる馬鹿だと思うのだけど、そんな馬鹿をわざわざ捕まえてくるのは、それに輪をかけて馬鹿馬鹿しいことだと思うのだ。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080309/1205033523

両者共にインターネットにおける自由が損なわれる、という危惧が根底にあるようだ。僕もそうした意識はないわけではないが、おそらくこの件とはあまり関わりが無いと思っている。そして両者の考え方には若干の違和感を覚える。

まず犯行予告に悪意があるのかないのかという話だが、これは確かに「犯行予告」の文面からは判断できない。ただし、インターネットという不特定多数が閲覧可能な空間において、学校やその他の人間の業務に障害をもたらす可能性のある言説であることには違いないと思う。id:Muichkineは、犯行予告を「匿名の無意味な情報」としているが、それは実際に犯行が起きなかったことが確認されたときにだけ事後的に把握できる話であって、予告が行われた時点では悪意があるのか有意味な情報なのかの区別は付かない。そして万が一その犯行予告に則って実際に犯行が行われたとき、それは事後的に「有意味であった」とされ、例えば学校側の責任や予告が行われたサービスの管理人が責任を問われることにはなる。*2
つまり行為としては十分周囲の人間の業務を妨害する可能性は発生する。そして悪意=犯意の有無だが、確かに犯行予告が行われた時点では分からない。が、行為のレベルでは法に触れると思われるので、少なくとも威力業務妨害罪で「逮捕」されるのは妥当だと思う。実際に罪に問われるかどうかはその後犯意についての取調べが必要となる。

また「自由」という観点から見ても「犯行予告」は退けられるべきものだと思う。我々は確かに自由を最大限尊重する必要がある。しかし、というかだからこそ、自由を侵害する自由は認められない。「犯行予告」は上記の通り不特定多数の目に晒されることで、一部の人間の自由を侵害する可能性がある。

ただ以上で述べたことは全て原則論であり、元のエントリも思考実験に近いものだと思われるので、あまり原則論の主張をグダグダと繰り返しても面白くない。ので僕も一つインターネットと自由という観点から書かせていただく。

このエントリのタイトルに「ある意味で」と付いているが、どういう意味で犯行予告の量産に賛成なのかと言うと、ガンガン馬鹿なやつがネットで犯行予告なんぞしてくれれば、ガンガンそうした馬鹿な奴は警察にしょっ引かれて、結果としてネットから馬鹿なやつが減る、しかもそれは犯行予告という実質的には「無意味な」行為が排除されるものであり、全体に対する影響は無いに等しい。全体にはそれがあろうがなかろうが大きな影響を持たない行為によって、馬鹿なユーザーが消えるのである。素晴らしい。

インターネットは、フィルタリング等、環境をいじることで事前の規制が行いやすい場である。僕は犯行予告を取り締まるといった事後的な規制よりも、フィルタリングなどの事前的な規制の方がより危険であると考えている。ただあらゆる行為を認める無法地帯にするわけにもいかない。そこでせめて事後的な規制は徹底した上で、事前の規制をなるべくゼロに近づけるという方向性を望んでいる。もちろん事前の規制が規律訓練化するという話はあるのだが。

*1:小学生によるインターネット上の犯行予告が相次いだことを受けた記事と思われる。http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/06/news006.html

*2:一応エントリ先ではゲーム論的な発想を用いることで責任の回避が説明できるとされているが、そのような発想を法は想定しておらず、ゆえにそうした発想を他人に強制することは出来ない。

「コンビニの建築×社会学」を聞いてきた。

MUSEUM OF TRAVEL
このイベントに参加してきた。

コンビニの建築×社会学
<ゲスト>
藤村龍至(建築家)
吉村英孝(建築家)
新雅史(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
田中大介(筑波大学大学院人文社会科学研究科博士特別研究員)
<モデレーター>
南後由和東京大学大学院学際情報学府博士課程/日本学術振興会特別研究員)

■都市空間の風景や日常生活に溶け込み、独特の場所性を獲得しているコンビニ。コンビニは、消費空間の構成、流通・情報ネットワークの空間化、労働環境などの点において、興味深い建築的かつ社会学的なテーマとなっている。
■今回はコンビニをめぐって、若手建築家2名と社会学者2名が各々の問題関心をぶつけ合い、議論する。

リンク先のブログを見ていただければ分かるが、Museum of Travelというグループが「CAMP」というシリーズで延べ30日間、トークイベントを中心に様々な企画を八丁堀の「Otto Mainzheim Gallery」で開催している。3月1日は以前勉強会で話を伺ったことのある社会学のお二方と、若手の建築の方が「コンビニ」について語るというイベントだったので、就活帰りに寄ってきた。

個別の内容―データベース/ガラス/スキマ/レキシ

流れとしては、藤村氏⇒吉村氏⇒田中氏⇒新氏の順で発表していく。1人の発表につき、建築学の人が発表したら社会学の人間がコメントを付け、社会学の人が発表したら建築学の人間がそれぞれコメントをするという方式になっていた。4人が発表を終えると、全体でのトーク及びギャラリーとの質疑応答に移った。

それぞれの発表を羅列すると冗長になるので、興味を惹かれた点、気になった点を小さくまとめてみる。

◇ 藤村氏:家電量販店やスーパーの空間を、物品が置いてある下の空間と商品カテゴリや値段を天井から吊るして表示している上の空間に分断し、前者を「遭遇的空間―encount space」、後者を「検索的空間―seaching space」と名づけた。両者は床から150cmのいわゆる「アイレベル」で分けられており、遭遇的空間にある商品を検索的空間で二次元情報によって「データベース化」している、という。
非常に興味深かったというか、データベースの文字を見た時点で東浩紀を想起したのだが、会場で配られたフリーペーパーにある藤村氏の文章を読むとかなりそこら辺を意識しているのが伺えた。

◇ 吉村氏:吉村氏が最初に手がけた薬局の建築に関する事例を挙げ、設計に際しコストの抑制や融資を受ける銀行からの要請などいくつもクリアするべき条件がある中で、いかに建築家が自分の裁量を確保できるのか、という話がメインだった。建築と言ってもかなり建築そのものによる制約以外に様々な条件で拘束されるということがよく分かった。ガラスをファサードに綺麗に使ったデザインも面白かった。
個人的には吉村氏の発表に際し田中氏が述べたコメント「コンビニはコンビニらしさを徹底していない」という言葉が印象に残っていて、「コンビニの壁を全部ガラス張りに!」という提案をなさっていたのだが、個人的には近所のセブンイレブンの壁が全部ガラスになったら多分行かない気がする。パノプティコンとは言わないけれど、周囲の視線をかなり気にしてしまいそうだからだ。コンビニは確かに今でも道路に面した側(ファサード)はガラス張りだが、あれは雑誌を立ち読みすることでガラス付近の人間は外と視線を合わさないでいれるのであって、全面ガラスになると気になる人もいるのではないかな、と思った。

◆ 田中氏:社会学のお二方は以前もっと長時間に渡りお話を伺ったことがあったり文献を拝見したことあるので、非常にかいつまんでいくつか。「スキマとしてのコンビニ」ということで、全国どこにでもあるコンビニが、ついふらっと立ち寄ってしまう、入るのと何故か安心してしまう「スキマ」であり、歴史的経緯から見て非常に「日本的」であるということを指摘していた。またセキュリティ意識の変化と共に防犯的な役割も同時に課されていく傾向にあることも述べていた。
ここで藤村氏がコメントで「聞けば聞くほどやっぱりコンビニに建築家はいらないんじゃないか、と思えてきてしまう」という「警戒心」を表明したのが面白かった。以後藤村氏は「コンビニに建築家ってほんとにいるの?」と言う問いを投げかけていく。

◆ 新氏:コンビニが日本で広まったのは、大店法による規制を潜り抜け、かつ規制緩和されていなかった酒類の販売も行える点に眼をつけ、個人経営の酒屋などに積極的に売り込んでいった結果だという歴史的経緯、そしてPOSシステムとそこで働く人間の関係について述べていた。最近はなかなかコンビニも人手が集まらず、
人間関係をいわば「しがらませて」維持しているような事態であり、高齢者と外国人労働者の比率が高まっていたり、店舗数もオーバーストアで、新規出店は大学や再開発されたビルの中など初めから人の入りが見込める場所が増えているという話であった。

全体の議論―文系と理系を架橋するもの

全体的な構図としては、建築学側は藤村:理論/吉村:実践、社会学側が田中:消費者、新:労働者、という図式になっていた。

全体トークでは、いくつかの論点が出たのだが、個人的には藤村氏が問い続けた「コンビニに建築家って必要なの?」という論点が面白かった。司会の方は、社会学と建築学を「コンビニ」という側面で架橋する視点として「インフラとしてのコンビニ」という方向性で行きたかったようで、社会学の方からは流通的な観点からバックヤードの設計に建築の入る余地があるとか、セキュリティの観点から、といった声が上がっていた。また吉村氏はコンビニの地理的な特性による絶対的な固有性ではなく、全体との差異によって構築される相対的な固有性を確保したいという観点から、コンビニに建築が入る余地があるのでないかと述べていた。ただそれでもどうも藤村氏はあまり納得してはいないようだった。

僕は藤村氏がどういうスタンスで建築家としてコンビニなるものに立ち向かいたいのかが分からなかったので、質疑応答のときに聞いてみた。内容としては、「藤村氏の言う『コンビニに建築学の人間が関わる』というのは、例えば他店舗との差異化を図る必要があるとか、銀行によって棚の数から何まで全部抑えられているとか、そういったいわば『文系的なオーダー』が先にあって、それに理系が応える形で関わることなのか。もしそうだとしたら確かにそれは他店と違うガジェットを置いたり、銀行の言うことには素直に従うしかなかったりで解決してしまうもので、建築がストレートに関わることは難しいかもしれない。そうではなく、先に建築の方から『理系的なオーダー』を出して、それに文系的な要素が応えるという形でならば、関わることが出来るしもし出来たとしたらそれはすごいことなんじゃないか」というもの。

それに対する藤村氏の回答は、「『文系的』『理系的』という言葉を使うなら、今まではちょっと文系的なオーダーが先に来ていて、自分としてはどっちが先というよりも、両者が同じテーブルにすわり、対等に話をして話が進んでいくような形を望んでいて、そうしたロールモデルを作ろうという野心みたいのがある。今日参加したのも、そういう方向性を考えたから」というものだった。確かに藤村氏の発表もかなり情報社会学的な用語や思考が垣間見られた。

ちなみにここで建築学側の人間でも藤村氏と吉村氏の間でスタンスの違いが見られた。文系的なものと理系的なものを分けて考えたうえで、その両者を合わせていきたいとする藤村氏に対し、吉村氏はそうしたものを分けずに考えていきたいというものだった。実際の建築においてそれがどういうアウトプットの差となるのかは、建築に全く疎い僕には察知することができなかったのだが、同じ研究室にいて同じ場で議論している間柄でもそうしたスタンスの差があり興味深かった。*1

個人的な感想―システムの中の生活空間

個人的には、「コンビニに来ると何故かほっとする」的なイメージをどうにか生かして、社会学と建築学を架橋することは出来ないのかと思っている。テンプレートなことを言えば、コンビニといったら「生活空間/システム」の文脈においてシステムの権化のような扱い方をされている。
藤村氏は量販店の天井から吊るされている物品のカテゴリ表示を「データベース」と呼んだが、コンビニはこうしたデータベースは明示的でない。何がどこにあるのかは、入ってみないと分からない。だがコンビニの利用者は大体何がどこら辺にあるのか分かっている。同じような構造をしているコンビニに幾度も入ることで、データベースを内面化しているからだ。
「生活空間」を、従来の定義から離れ、「履歴の参照可能な空間」、「システム」を「履歴の参照不可能な空間」とすると、コンビニは自分の過去の履歴=データベースを参照し、それと現前の空間が一致することで「入ると何故か安心する」ことの出来る場所であるといえる。形容矛盾的だが、「システムの中の生活空間」とでも言えるような場所になりつつある。こうした要素を、建築の力によってより広範囲の人間に、より簡易にもたらすことが出来れば、それはかなりインパクトのある仕事ではないかな、と思った。

*1:他にも吉村氏がコンビニのガラスを増やせと言った後に藤村氏がガラス減らせと言う場面があった

19歳のニートの女の子の美談についての補足。

先日のエントリの真実性の箇所について、id:ono_matopeさんからTBを頂いたのと、ブックマークコメントでも分かりづらいという指摘を頂いたので少し補足させていただく。

2008-02-27 - 小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

水からの伝言」は、「水からの伝言」という物語の外部に、「科学」という我々が客観的に観察可能な、検証可能性を持っていた。そしてその検証可能性に基づき非難された。
一方19歳のニートの女の子の美談は、本エントリの文章以外には、我々が客観的に観察可能な検証可能性を持っていない。本エントリの著者が事実であるかのような書き方をしているという以外には、検証可能性が無いのである。
物語の帰結としての著者の「主張」と、その物語が真実であることが対応せねばならないとき、我々は日本昔話やグリム童話にも同じことを求めねばならない。嘘を付くことは信頼を損ねることになる、という主張の根拠となるオオカミ少年の物語は本当だったのか? それを検証する手立ては、もちろん無い。それと同じように、我々はあの女の子の美談を検証する手立ては、無い。

個人的にはono_matopeさんの指摘するように話の整合性は怪しく、創作の可能性があると思う。ただそれが創作であったにせよ、本エントリの中で自己完結しており、それ以外に我々が何か検証する余地はない。
あの美談は本エントリの「リアルの書店にはネットにはない素晴らしさが」ある、という主張の「根拠」と呼べるものではない。オオカミ少年の話が信頼の大切さの「根拠」などというたいそうなものにはならないように。