絶倫ファクトリー

生産性が高い

アーレントとブロゴスフィア

昨日は先輩と「人間の条件」の読書会だった。いろいろとありがとうございました。
僕はこの本を「公的領域」に絞って読みすぎていたため、いくつかの示唆を見逃していた気がする。そもそもこの本があっちこっちに議論が飛ぶのが問題な点もあるんだけど。
その中で面白かったのが、アーレントの言う「who」としての表れが、「物語」を通してのみ暴露されうるということだ。ここで言う物語は個人の「歴史」というか、要は本人をこれと規定するアイデンティティが最初からあるんでなく、他者との関わりの記録を通じて「誰」が記憶されるということだ。
現代は「who」としての表れがなくなっているといったが、ブログというのは結局その人間の歴史を連ねているという時点で「物語」である気がする。東浩紀と大沢真幸の対談の中で東が「現代は『現れ』が過剰じゃないか」と言ったのは、そうした面では言いえてるかもしれない。
他方、同じような「物語」を持つであろうmixiフーコー的権力の構図で敬遠される面も持つ。「現れ」るべき相手とそうでない人間が混在している中で、最大公約数的に積み重ねた「物語」が果たしてどれだけ意味を持つのか。フーコー的権力を受け入れている時点で、それは人間関係における安全性の効用を重視している。「物語」自身に目的はないはずで、人々にそうした効用を重視するという目的がある限り、それは「物語」ではない。
だとするとフーコー的権力から(感覚的に)逃れうるブログのほうが、より「物語」に近いことになる。ところがここで暴露される「who」は、どのレイヤーまで有効な固有性なのか。ウェブ上のみなのか、リアルでも有効なのか。
ちと考えてみたい。いろいろ追記するかもしれない。