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昭和ノスタルジー CSF例会より

CSF例会に行ってきた。
かなり刺激的で面白かった。ゼミの先生がいなかったら行ってなかったが。良かった良かった。


とりあえず昨日自分メモ兼昨日うまくまとめられなかったことをここでまとめてみる。

五十嵐泰正先生の話―ノスタルジーからコミュニティ論へ


以下先生のレジメより要約。

Always 三丁目の夕日」のヒットなどに見られる昭和30年代ノスタルジーは、「コミュニティ」の観点から見るといくつかのレイヤーに分割できる。お台場一丁目商店街、昭和30年代風の立ち飲み屋など、テーマパーク的な要素の強いものについては、ガジェットをふんだんに使ったインフラ、一方でマニュアル化された店員など、コミュニティを作り出すのは不可能だ。
 対して、上野などの「下町」は、「コミュニティ」を売りにしたノスタルジー的パッケージに包まれつつある。70年代の「下町」は、下町の歴史の深さやユニークさを売りにした「固有性のゲーム」の中にあった。しかし00年代になると、立ち飲みブームや「人々の暖かさ」を持ち出す「関係性のゲーム」に移る。
 こうした「コミュニティ」を掛け金にする「下町」の姿勢は、都市論の中で二つの流れから別々の評価を受けざるを得ない。「まちづくり系」の都市論からはコミュニティを希求する姿勢はアプリオリに善である。一方、カルスタ系の都市論からするとそれはもろ手を挙げて賛成というわけにはいかない。なぜなら人々の連帯というコミュニティの特質を売りにする以上、その連帯に見合わない人間への排除につながるからだ。
つながりを媒介にする「関係性のゲーム」を行う以上、(そして下町の発展をもくろむ以上)クローズドな空間にするわけにはいかない。しかし一方でそのコミュニティにあわない人間は排除せざるを得ない。こうしたアンビバレントな状況の均衡が必要となる。

発展した議論―固有性をフックにした関係性のゲーム


コミュニティの話は下町に限らず、「裏柏」と呼ばれる古着店街のサークル的な連帯感の例なども出てきた。「あの店に行けば誰かがいる」という感覚だ。
僕にとっては、この感覚は高校時代の部室の感覚に似ている。「部室に行けば誰かがいる」
だがこうしたコミュニティは、例え一次的(地縁・血縁に基づいた)集団でなくとも、果たして二次的(目的的)集団と呼べるものなのだろうか、とも思った。部室にはその部員でなければおおよそ入ることはないだろうし、「誰かがいる」から行くというのは完全に目的的とは言えない。「1.5次的」とも呼べる集団がそこにはある気がする。
そうしたコミュニティで繰り広げられているのは、「固有性のゲーム」から「関係性のゲーム」へ、という先の移行ではなく、コミュニティの一員であるという「固有性」をフックにした関係性のゲームが行われている。コミュニティの一員としてのidentificationを難しくし、「固有性」の価値をあげることで、関係性のゲームがより強固に行うことができる。

「身体」という究極の固有性


この固有性をフックにした関係性のゲームは、使い方によっては先の「まちづくり系」と「カルスタ系」のコミュニティへの異なる見方を解消しうるのではないか。
それがゲーティッド・コミュニティである。「身体」という究極の固有性をフックに、ゲーティッド・コミュニティの中に引きこもることで関係性のゲームを保持する。コミュニティは保持できる上に、ゲーティッド・コミュニティは資本さえつめば人種・性別・宗教といったものを超えてコミュニティを解放する。
ただ一方でゲーティッド・コミュニティ内に作られた(作られると見込まれている)コミュニティが果たして本物なのか疑わしいし、それは資本という新しいidentificationを生み出すことになる。有効性は疑問だ。

その他の議論


コミュニティへのアクセスビリティの話が出てきたが、これはなかなか重要な議論だと思われる。コミュニティへの参加資格と、アクセスビリティは関連が強い。社会工学的にも面白い話だと思う。(「アクセスビリティ考えたら全部イオンになっちゃうよ!」と五十嵐先生)
あとはアイデンティティの三次元の話(能力・所属・関係)で、「所属を使って関係を上げる」とか、「下町」のアイデンティティは実はすげー再帰的だ、とか。


勉強します。