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モダニズム建築と日本の伝統建築

人類と建築の歴史 (ちくまプリマー新書)

人類と建築の歴史 (ちくまプリマー新書)

ふと気になることがあって読み返していたら、ぽろぽろと忘れていた内容があって面白かったのでメモ程度に。

この新書は全6章あるうちの4章までを新石器時代に費やしており、第5章のタイトルがなんと「青銅器時代から産業革命まで」となっている。いくらなんでもぶっ飛ばしすぎじゃないかと思うが、第6章「二十世紀モダニズム」が非常に面白かった。

バウハウスと日本

バウハウスの初代校長ウォルター・グロピウスや第三代校長ミース・ファン・デル・ローエに影響を与えた人物として、フランク・ロイド・ライトがいる。国内だと帝国ホテルの設計者として知られる彼は、1983年シカゴで開かれた万国博覧会で日本が出展した平等院鳳凰堂のモデルを見て衝撃を受けた。ヨーロッパの建築は石やレンガの壁を素材とするため、部屋と部屋、家と外の境界がきっちり構造物によって分け隔てられている。日本の鳳凰堂は、部屋と部屋の間も家の外の境界もあいまいで、中心から外へと向かっていく構造を持つ。外から中心へと家を部屋や廊下などの要素に分断していく欧米の建築とは、根本的に異なる発想で作られている。彼はこの万博をきっかけとして、1910年に図面集を出版する(どうもwikipediaで調べたところ、これは不倫相手とのヨーロッパ駆け落ちの間に出されたものらしい)。

……図面集に表現されていた間取りの流動性と外観の伸びやかさに、ライトと同じ問題にぶち当たっていたグロピウスやミースは大きなショックを受け、それまでのドイツ表現派から脱出する重要な足がかりをえた。(本書p.160)

バウハウスというと鉄筋コンクリートとガラス、というイメージが強く、日本の伝統建築との関わりと言われても門外漢からするとぴんとこない。だが空間の使い方としては
・壁を使わず柱を使う
・外部との連続性が保たれている
2点が共通している。バウハウスにはライトを通して日本の伝統建築の遺伝子が宿っていた。

バウハウスの建築は、世界でも類をみない速さで日本に輸入されたことは、それと関係があるのだろう。1928年の三宅やす子邸は、バウハウスで学んだ石本喜久治が設計した。コンクリート、縦に長いガラス窓、平たい屋根と、ヨーロッパモダニズムの要素が一目で分かる。

http://www.ishimoto.co.jp/ayumi/history02.html#epi08

「歴史」から「科学」へ 参照項の変化

この本では、バウハウスはそれまでのヨーロッパ建築に脈々と受け継がれてきた伝統的な様式を自己否定した「鬼っ子」として説明されている。
確かにバウハウスが出現する以前の大雑把な流れとしては、ゴシックやルネッサンスを再評価する歴史主義建築が隆盛だった。歴史主義建築は過去 の建築様式を「正典」として復活させる。だが歴史主義のフレームの中で作り手たちが差異化を図るには、少なくとも建前の上では設計者の「直観」などは使え ない。代わりに参照項たる「正典」の歴史を細分化し、差異化を図ったのではないか。それは翻って、科学という建築の外と繋がる客観的な参照項を持つモダニ ズム建築が生まれる土壌となった……。
のかどうかは分からないが、壁をなるべく使わず、また外部との連続性を保つというコンセプトが鉄筋コンクリートとガラスという要素と出合うことで可能になったのだろうか。そういえばちょっと前に2ちゃんのまとめブログか 何かで「なんで日本人は日本の伝統建築に住まないんだ」と外国人が言う、みたいな記事があったが、こういう話を知るとそう簡単な話ではないということが推 測できる。その外国人がいう日本の伝統建築の持っていた要素が、物好きなアメリカ人、鉄筋コンクリートとガラスと出合うことによって、その後世界を席巻し 今も建築の基礎の座にあるモダニズム建築を築いたのだということを、その外国人は知らなかったのだろう。