絶倫ファクトリー

生産性が高い

こじらせ女子とは何か

こじらせとは、ワナビーと構造的に対になる言葉である。

過剰供給される「ありえるかもしれない自分」

人は様々な「物語」を生きる。消費社会はメディアを通じて私達に様々な可能性を見せる。時に人はそうした外部の物語が先行して、行動よりも願望が先回りしてしまう。ワナビーとは、「ありえるかもしれない自分」の亡霊に惑わされ続ける人のことだ。一方「こじらせ」はその逆である。いかなる「物語」も拒否し、生き方に迷う人々を指す。ワナビーもこじらせも、「ありえるかもしれない自分」を上手くキャッチできていない人種である。方向性がポジティブなのかネガティブなのか、ワナビーとこじらせの差はその違いにすぎない。

自分で自分固有の人生を回せない=自分の「物語」を持てない。それは今に始まった現象ではない。資本主義以前の世界で、人々の物語は決まっていた。生まれた瞬間、たいがい人々の前に見えないレールが敷かれていた。資本主義が浸透した後も、しばらくはレールが身分から階級へと名前を変えたに過ぎなかった。ところが資本主義が高度化すると、階級すらも取り払われ始めた。資本主義において基本的に固定化は望まれない。人々はレールを外され、鎖を解かれた。代わりに現れたのはメディアによる「物語」の過剰供給だった。わたしたちに「個性」を押し付けたのは教育ではない。広告である。資本は市場をもとめて、ありとあらゆるメディアの割れ目=広告をつたい、人々に「ありえるかもしれない自分」=物語を見せる。ファッションから就職先まで、あらゆるところで人々は「ありえるかもしれない自分」を夢想させられ、「ありえたかもしれない自分」の残像を振り払いながら生きていく。決して手の届かない物語を掴まされても、誰も責任は取ってくれない。何が手の届く物語なのかわからず、手を伸ばさないことにしたしても、同じ事だ。物語に躍らされる者、物語を忌避し続ける者。大平原に放り出され、地図とコンパスを自ら用意できるものは、決して多くはない。

インターネットの影響

インターネットの登場はこれを加速した。物語を見せるのは広告だけではない。人々が自ら物語を語りはじめたのだ。「ありえるかもしれない自分」が、ブログ・Twitter・まとめサイト、あらゆるところに跋扈し始めた。インターネットを通じて、断片化された他人の人生を見ない日はもはやない。自分よりずっと実力が上の人間の生き様をどっと見せられた時、その道を諦める人もいるだろう。その逆もあるだろう。インターネットは、羨望と忌避を大量に生み出した。

付随してもう一つインターネットは問題を生んだ。名付けだ。そのようにワナビー的/こじらせ的に人生を送る人々は昔からいた。しかしインターネットはそうした人々に「ワナビー/こじらせ」と名前をつけた。それは「ワナビー/こじらせ」を自称する者、他人を「ワナビー/こじらせ」呼ばわりする者の2つを生み出した。結果、それらの言葉が急速に普及し、意味が変質した。元来「ワナビー/こじらせ」と呼ばれる人=ネイティブワナビー/ネイティブこじらせと、その名前が広まった後、再帰的に呼ばれるようになった人では、もはやその内容が異なってくる。

雨宮まみ『女子をこじらせて』を出すまでもなく、特にこじらせ的な生き方は女性に多いように思う。それは若い時の女子的な生き方のテンプレートが極めて窮屈なこと、いっぽうで社会に出た後のロールモデルが極めて希薄なこと、このコントラストの強さが一因なように思う。とはいえその事情は個々人でだいぶ違うはずだ。特にインターネットの影響については年代によって差がある。





続きは「ねとぽよ 女の子ウェブ号」で!

ということで文フリの季節がやって参りました。宣伝のお時間です。

11/18開催の文学フリマで頒布される『ねとぽよ 女の子ウェブ号』では、大学生から社会人まで、実際の「こじらせ女子」の声を集めて、彼女たちがどのように生き、ネットを使いそれがどのような影響を与えているのかを記録しています。担当は象徴編集長・斎藤大地。その他のコンテンツは以下をご覧ください。

女の子ウェブ号 | ねとぽよ ねっとぽよくはへいわしゅぎをひょーぼーします

Gunosy がすごい

昨日のエントリーで「自分に必要な情報を選ぶためのフィルターは淘汰される」という話を書いた。『閉じこもるインターネット』の著者は、メディアがユーザーの望むものだけを与えることで、衆愚的なコンテンツばかりになることを危惧していた。それ自体はすでに起きている事態だ。問題はそうした衆愚的なフィルター、つまり「みんなが見たがるものを私も見たい」という欲望に応えることのできるコンテンツと言うのは、そんなに種類として多くない。ほぼパターンが決まっているのである。フィルターを非常に作りやすい。そのため飽きられる速度もそれなりに速い。フィルター自身が淘汰されると書いたのは、そういうことだ。 

 

最近、面白い「フィルター」を見つけた。「Gunosy」というサービスだ。TwitterFacebookのアカウントを使ってサインアップすると、アルゴリズムを使って自分にあったニュースを探して配信してくれる。こう書くと「はてなブックマーク マイホットエントリー」や「Crowsnest」と似たようなサービスに聞こえる。全然違う。これらのサービスが基本的にTwitterFacebook上のソーシャルグラフ上で話題になっている記事を抽出するのに対し、GunosyはTwitterFacebookをユーザーの趣向を判定するのに使うだけだ。記事のレコメンドはユーザーの趣向に基づくので、ソーシャルメディア上で話題になっているものが必ずしも配信されるわけではない。 

ソーシャルグラフを元に記事をレコメンドするサービスは、ソーシャルグラフが広がれば広がるほど、そこで流通するコンテンツが衆愚化しがちという問題を抱えている。

参考:

http://naoya.hatenablog.com/entry/2011/11/22/234059

たとえその母体となるグラフが自分が選んだ人であっても、その選んだ人たちを増やせば増やすほど、それが衆愚化してくのは避けられない

  • つまり、はてなブックマークにおける Social Graph を太らせれば太らせるほどマイブックマークの価値は下がっていく

  

その点、Gunosy は自分のアクティビティをベースに記事がレコメンドされるので、自分がある程度自分の好みに自覚的な行動を取っていさえすれば、こうした事態を避けることができる。 

設計思想などは以下のインタビューが詳しい。

[インタビュー]情報の新しい流れをつくりたい–東大のエンジニア集団が立ち上げた次世代マガジンサービスGunosy | Startup Dating [スタートアップ・デイティング] 

そして実際使ってみると、精度が高い。自分のアクティビティを元にしたレコメンドなので精度といっても自分が良いと思うかどうかの話だが、「お、これいいな」と思うものをレコメンドしてくれる。 

 

特に面白かったのは、この記事をレコメンドしてくれた時のこと。

ブックオフオンライン、検索広告廃し利益10倍に、商品値下げで購入率増 - 通販新聞

この記事をお勧めしてくれたのは6月12日の朝だったのだが、その時点ではてブは10~20程度しかついていなかった。その後300以上にまで伸びていることを考えると、わりと早い段階と言える。 

もちろん先にはてブできたからGunosy すごいという話ではない。6月12日の朝というのは、WWDCのイベントで僕のタイムラインは持ちきりだった。タイムラインに流れる記事はほとんどが新MBPやiOS6の話だった。少なくとも同じタイミングで届いたはてなブックマークの「マイホットエントリー」メールには、WWDC関連以外の記事がたった1つしかなかった。ソーシャルグラフをベースにしたレコメンドでは、こうした事態を回避できない。

 

ということでまとめると、

Gunosy すごい。

 ・結構「これは」と思う記事をお勧めしてくれる。

ソーシャルグラフを単に数に還元しただけのレコメンドシステムは微妙。

 ・はてブのお気に入り機能で十分。

 ・naoyaさんはてなに戻ってこないかなー

・フィルターバブルというけれど、フィルター自身をこうしてユーザーが選ぶことが可能。フィルターは淘汰される。

 ・もちろんその淘汰の中で選ばれるフィルターがなおどうしょうもないものだったりすることはあるかもしれないけど。

『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』

 

未読だったので読んだ。「グーグル・パーソナライズ・民主主義」というサブタイトルでほぼどういう本だか見当が付きそうだが、その検討は外れていない。

 

インターネットではユーザーとサービスの間でフィードバックループが起きやすい。ユーザーの行動が定量的に観察できるため、サービスはユーザーの行動に合わせて機能を変えたりサービスを提供したりする。これが人間の認知に影響を与える、つまり視界を覆うフィルターとして機能し、多様性が失われるのではないか、という話。筆者はこれを「フィルターバブル」と呼ぶ。ユーザーはフィルターの泡の中で、公共性に触れることなく過ごしてしまうと言うわけだ。

 

問題意識としてはサンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』やレッシグ『CODE』、その他プライバシーとインターネット関連の諸問題もろもろを引いてきており、とくに目新しいものはない。むしろユーザーとサービスの間にあるフィードバックループにはさまざまな種類があるのに、十把一絡げにして「フィルターバブル」などという比喩でまとめてしまっているため、個々の議論としては頷ける部分もあるのに、総論としては首をかしげるざるをえない。フィルターといっても、ユーザーの行動履歴を分析し、最適な情報をレコメンドするものと、多数のユーザーを大衆として定量的に扱い、衆愚的にコンテンツを与えるもの、これらは根本的に異なる。

前者は基本的にユーザーの利便性を高めるものであり、ありうるリスクとしては個人情報の横流しやユーザーの利益に反するようなマーケティング(同じECサイトで同じモノを買ったユーザー同士で、パーソナライズの結果値段が違う、とか)がある。これらは基本的にフィルターとしての問題と言うよりは、副次的に発生する問題で、個別撃破で解決していくしかないし、解決可能である。

後者はそもそもパーソナライズですらなく、ユーザーが受動的に情報を受け取る態度が原因であり、テレビや新聞でも同様の問題はある。著者はそれでもテレビや新聞と言った報道機関は何を報道すべきか基準を持ってコンテンツを作っているのであり、無いよりマシであるといった論調を張る。が、問題は受け手の話であり、ではテレビや新聞の報道を受動的に受け取る時間がインターネットの衆愚的なコンテンツを受け取る時間に変わったとして、受け手の行動は何がどう変わったのだろうか。もちろんそうした比較は本書にはない。あるのは理想化された「市民」像だ。

本書はこうした2つのフィードバックループの話を「フィルターバブル」という比喩を使って無理やり突破しようとしている。確かにパワフルではあるが、ちょっと雑。

 

ただ面白いのはこの本がそれなりに広範囲な読者に売れてそうなところである。パーソナライズによる問題は2000年以前からすでに具体的な問題を伴って語られてきたが、インターネット業界に携わるものやアカデミックに近い界隈で語られてきた。Amazonやブクログのレビューを見ると、そうした議論に触れてきた人しか読んでない、というよりむしろこうした議論に初めて触れる、という人もそれなりにいそうで、何か潮目が変わりつつあるのかなとも思う。

 

【追記】他にも色々とこの本は難があって、技術決定論を批判しておきながら自分の語り口がずいぶんと技術決定論的になるという古典的なミスをやっていたり、あとフィルターによって人間の学習行動が阻害されることを懸念しているんだけど、それって結局要は人間の学習行動の力を著者自身が過小評価しているんじゃないかという話とか。多分本書に対する一番短いカウンターとしては、「フィルター自体も淘汰されていくよね」という話かもしれない。もちろんそのためにユーザーが声を上げなければならないというのは賛同しつつ。

Deliciousを久々に見たらひどいことになっていた件

Deliciousを久々にみたら、ひどいことになっていた。

 

Delicious

 

はてなブックマークの元ネタくらいに考えていたのだが、今はキュレーションサービスに舵を切ったらしい。キーになるのは「Stack」という概念だ。Pinterestをご存知の方はPinterestの「Board」にあたるものだと考えてほしい。

 

Deliciousでブックマークしようとすると、ブックマーク画面でどの「Stack」にそのページを加えるか選ぶよう迫られる。あとから変更できるのだが、Deliciousのトップページはすべて「更新されたStack」の情報が並んでおり、このStackが重要な機能であることが分かる。

 

Stackは、要はNaverまとめページだ。自分の好きな切り口で、自分のブックマークしたページ(引用含む)や画像、動画を1つのページにまとめられる。

 

はてなブックマークがユーザーをユーザー単位でしかフォローできないのに対し、DeliciousはこのStack単位でフォローできる。Stackはタグとは異なる概念だ。タグは「サッカー」というタグの下に、そのタグを付けたすべてのユーザーのすべてのブックマークが集まるが、Stackはユーザーとトピックの掛け合わせで出来ている。AさんのサッカーというテーマのStackをフォローした場合、Aさんが作るラーメンというテーマのStackは自分のフィードに入ってこない。はてなブックマークでは一度ユーザーをお気に入りにしてしまえば、その人が何をブックマークしようが、その情報は「お気に入り」フィードの中に入ってくる。

 

はてなブックマークの課題はお気に入りに入れるユーザーを見つける導線が細いことだが、Stackがあれば、Stack単位でユーザーの趣味や考えを見せることができる。ユーザーに対する興味関心の導線が、増えることになる。

 

……とここまで書くとずいぶんいいことづくしのようだが、僕はこれを机上の空論だと思っている。図に書くとこれはかなり綺麗だ。上手く機能するように思える。ところが実際に出来上がったStackページを見ると、実に中途半端なのだ。ある人はStackを自分のブックマークを整理するための概念として使い(カテゴリー分類的に使っている)、ある人はNaverまとめのように、Stack1ページ全体で1つの文脈を作ろうとしている。

http://delicious.com/stacks/view/Ot3fGq カテゴリ的に使われた例

http://delicious.com/stacks/view/OxAPLq 1つの文脈を作ろうとした例

前者の、情報整理的な概念のStackページの中に後者のNaverまとめような文脈はない。そのためStackページ単体で見ても、とくに面白見はない。一方Naverまとめのように作られたStackページは単体で見て面白いものもあるが、一度文脈が作られてしまえばその後そのStackページが更新されることはほぼないだろう。Stack単位でフォローするメリットはない。しかもぱっと見たところ、Delicious内に面白いStackページを見つける手段が見当たらない。

 

とにかく中途半端である。Stackというページが、ユーザーに対してどのような価値をもたらすのかとても曖昧なのだ。単なる情報整理のためのクッションページなのか、全体で1つの文脈を作るのか。同じ「オンラインに情報をクリップする」という行為でも、前者と後者では全く意味合いが異なるし、アウトプットは異なるものになる。にもかかわらず、DeliciousはそれらをStackページという単一のアーキテクチャにまとめてしまっている。

 

Double click ad planner  でhttp://delicious.com/ のユニークユーザー数の推移を見てみたところ、リニューアルがあった昨年の秋以降、ユーザーの減少は止まっているようだ。ただそのあとは横ばいで、ユーザーの拡大とまではいっていないようだ。

ソーシャルメディアにおけるベネトン広告「UNHATE」の広まり方

「枠」を揺さぶるベネトンの手法

ベネトンの新しいキャンペーン「UNHATE」が話題になっている。

f:id:klov:20111117231618j:image
http://unhate.benetton.com/campaign/china_usa/

敵対する国家首脳(一部宗教トップ)同士がキスしている写真が並ぶ。もちろんコラージュだが、かなり「本物」っぽくできている。

ベネトンは、オリビエロ・トスカーニの手によるショッキングな広告を多く発表してきた。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm

今回の広告が彼の手によるものなのか分からないのだけど、これまでの路線を踏襲したものには違いない。

比較文化学者の今橋映子は著書『フォト・リテラシー』の中で、トスカーニのベネトン広告についてこう書いている。

トスカーニは、報道写真の媒体そのものを転移することで、すさまじい拒否反応を確信犯的に引き起こすのである。(中略)私たちが考えるべきなのは、例えばグラフ雑誌の中でならいまや誰も驚かず、むしろ見過ごしてしまうような報道写真(たとえば血まみれのシャツ)が、広告という「異化効果」の中に埋め込まれたとたんに、かくも強力に読みとりのサインを私たちに発しはじめるという、その驚きなのである。(p.181)

トスカーニの写真は、私たちがモノを見るときの「作法」を揺さぶる。報道写真であればこう、週刊誌の写真であればこう、広告であればこう。その作法が、逆に被写体への印象そのものを司っている。それに逆らったイメージを広告という枠の中に入れることで、写真を見るときの作法を意識させる。

ただこれは「写真展に並んでいそうな写真を広告の中に流し込む」といった「枠から枠」への移動だった。写真展やグラフ雑誌といった「枠」と、広告という「枠」、それぞれに写真を見る一種の作法があった。けれどインターネット、とくにソーシャルメディアが普及し、TwitterFacebookの中でベネトンの広告写真が流通するようになった時、そこには何か「枠」があるのだろうか。あるべき「枠」、写真を見る際の作法との摩擦によってその意味をなしてきたベネトンの広告写真が、ソーシャルメディアという枠も作法もない世界に投げ込まれた時、はたしてどんな効果をもたらすのか。

メタ情報ごと流通するソーシャルメディア

実感としては、「反嫌悪」と訳されたキャンペーンに反し、「気持ち悪い」「うへぇ」といったカジュアルな嫌悪を呼び起こしながらこの写真は広まっている。確かに見て気分のいい写真では決してない。逆に言えば、「気持ち悪い」「へどが出そうな」写真が、ここまでソーシャルメディア上で広まったことはあまりない。あまり度が過ぎたものを流せば反発を受けるし、下手をすれば炎上に繋がるからだ。けれど(僕の観測範囲内では)ソーシャルメディア上でこの写真はかなり広まっていた。それは「ベネトンの広告である」というメタ情報が付与されていたからにすぎない。ベネトンの広告であるという情報が付くことによって、情報を流す方は「安全に」流せるし、コメントする方も、カジュアルに嫌悪感を示すことができる。それは写真そのものへの嫌悪感ではなく、「それがベネトンの広告である」という情報に対する反応である。

上で「ソーシャルメディアという枠も作法もない」と書いたが、今回の「UNHATE」についていえば、「ベネトンの広告」という枠がきっちり機能していた。もっといえば、ソーシャルメディア上で流通していたのは、この写真そのものではなく、「ベネトンの広告である」というメタ情報である。ソーシャルメディア上では、枠なり作法なりを提供するためのメタ情報が、写真というオブジェクトを引っ張り、流通「させる」のだ。

今回の広告に対するソーシャルメディア上での反応をすべて観察したわけではないので、これは単なる実感に過ぎない。けれどソーシャルメディアで情報が流通するとき、そこに情報を扱う枠・作法をもたらすためのメタ情報が媒介として存在し、それが情報の流通に強い影響をもたらしているのではないか。言い切ってしまえば、ソーシャルメディアで流通しているのは、情報ではなく、メタ情報なのである。

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

「文学フリマ」と「.review」

先週の日曜日、「文学フリマ」に行ってきた。筑波批評社は今回参加せず、完全に読み手として参加した。一番の目当ては、西田亮介氏の主催する「.review」のパッケージ版と、彼と市川真人氏との対談だった。

読みたいproject.review
Nothing found for Review-beta-2 Bunfree10

 『早稲田文学』を編集するかたわら、「前田塁」名義で『紙の本が亡びるとき?』などの著作を持つ市川真人氏と、新形態のメディア「project .review」の発起人で『思想地図』や『α-SYNODOS』などに寄稿する西田亮介氏を招き、現在のメディア状況についてお話いただく。
 同日同建物内にて開催される文章系同人即売会「文学フリマ」に今回初めて参加する西田氏は、不特定多数に業務外注する「クラウドソーシング」を駆使する「project .review」を立ち上げた。一方、元々「文学フリマ」を大塚英志氏とともに提唱・開催した一人である市川氏。TwitterUstreamなどのネットツールが普及する中、また印刷が手軽になった紙媒体のメディアや「イベント」の現場性をどう捉えているのか。
 近年、ネット上での無意識の流動性に警鐘を鳴らしあえて保守的に振舞おうとする市川氏と、むしろ場の生成や勃興に尽力する西田氏が、氾濫する〈ミニコミ2.0〉状況にそれぞれ異なる立場から見据える未来とは?

ウェブメディアと紙メディア―アーカイブとコンテクスト

トークイベントの内容は、僕を含めたtsudaりとそのまとめがある。

トークイベント 〈ミニコミ2.0〉~メディアと流通の機能~ - Togetter

「なるべく価値判断をせず、場を作る役に徹したい」という西田氏に、市川氏が「でもそれってメディアの中でメディア論をやる、メタメディアの方向に行きがちじゃないですか」と問いかけるという展開で、それ自体は「.review」以前からよくあるものだ。なので、

という感想を持たざるを得なかった。
ウェブ上のメディアは、その性質上、メディアとしてもアーカイブとしても機能する。検索エンジン経由でのアクセスや、他のサイトからのリンクをたどってアクセスしたユーザーが見るコンテンツは、そのメディアの一部として認識されないまま読まれることがままある。ウェブのメディアは、(スタッフのやる気とサーバーが続く限り)半永続的に更新され、同時に半永続的に膨張するアーカイブでもある。紙のメディアは、ウェブのように半永続的に更新されるということはない。雑誌にしろ新聞にしろ定期的に刊行はされるが、メディアそのものは一度作られてしまえばそれきりだ。このことは、コンテクストという、メディアには欠かせない要素の形成に大きく関わってくる。
紙のメディアは、基本的に買ってしまえば中身が自動アップデートされることもなく、また物理空間を占有する。そのためウェブと比べて、アーカイブにはあまり向かない。一方でこの物理的制約は、掲載されているコンテンツがそこにパッケージされている意味を半ば強制的に作りだすことができる。なぜこの著者のこの文章があの著者のあの文章と同じパッケージに含まれているのか。なぜ「あれを載せてこれを載せない」という選択が発生したのか。その設定の担い手は作り手/読み手両方にあるものの、コンテンツ単位での消費が可能なウェブのメディアと違い、紙メディアの方がコンテクストを作りやすい。

メディアを立ち上げやすい環境ができているのは、ウェブだけではない。紙メディアもツールや告知手段の進化によって、非常に作りやすくなっている。そして文学フリマが最大の証拠の1つであることは言うまでもない。なので西田×市川対談では、そういった環境の変化とメタメディアの隆盛は前提としつつ、ウェブと紙両方でメディアを展開する際にどういった戦略の差を付けるのかを議論してほしかった。

対談の中で西田氏は

という趣旨の発言をしていた。ウェブではこのスタンスも可能だろう。ただ今回の文フリにおける『.review001』のように、紙のメディアとして世に出す際、なんらかのコンテクストを作らなければ、マネタイズは難しい。もちろんこんなことは釈迦に説法と分かりつつ、対談としてはもう少しそこらへんに踏み込んで欲しかった。

『.review001』

で、肝心の『.review001』である。ひとまず上から順番に

「現代のコミュニティとは何か」TSUTAYA TOKYO ROPPONGI 西田亮介×宮台真司

渡辺明日香「ストリートファッションの可能性」
松山貴之「これからのファッションブランドのあり方−「あこがれ」から「コミット」への転換−」
松永英明「ライフスタイルとしての「小悪魔ageha」と「森ガール」分析」
上原拓真「第三の広告― エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 ―」
花房真理子「アニメ声優の消費者分析」
TBS 文化系トークラジオLifeプロデューサー長谷川裕氏インタビュー
建築
中川大地「ALTERNATIVE WAYS 東京スカイツリー論」
荻原知子「「個室化」する都市−仕切られたい私たちの居場所論−」

まで読んだ。「Life」の「黒幕」こと長谷川氏のインタビューがとてもよい。「Life」誕生前夜の、氏の仕事と「やりたいこと」の葛藤というかもやもや感がとてもLifeっぽい。外で読んでいてにやにやしっぱなしだった。
論文は「ALTERNATIVE WAYS 東京スカイツリー論」と「「個室化」する都市−仕切られたい私たちの居場所論−」が気に入っているのだけど、それは単体で面白いという意味と「続きが読みたい」と思う意味両方だ。文字数の関係なのか分からないが、面白いけどもう少しボリュームのある中で読みたいと思うものが多い印象を受けた。
ちなみに巻頭の西田×宮台対談はアツい。読み進めれば読み進めるほど自分の心の弱い部分をガシガシ削られるが、だからこそ読みたいというマゾっぽさを持ったうえで読む覚悟が要る。

ちなみに、上で長々と書いた「コンテクスト」の話だが、西田氏が巻頭言でこっそりと「希望とその実践可能性」という隠れテーマに言及している。ここ本当はもっとアピールした方が良かったんじゃないかと個人的には思っている。おそらくこれを前面に出すと何らかの価値判断をせざるを得ないという価値判断が働いたのかもしれないが、(全コンテンツを読んだわけではないので断言できないけれど)、なるほどと思うテーマでもある。東京スカイツリー論などまさにそのものだし。個人的にはこうしたコンテクストは、メディアを作る中で無意識のうちに投影されがちなものだと思っている。ので、もし今後も紙で『.review』が発行される際には、がりがりコンテクストなりテーマなりを前面に打ち出してもいいような気がしている。

情報の複雑化と望まれる「マスメディア」

仰るとおりで。……といいたいけれど、事態はそれほど容易なレベルではなくなっている。「それはどのような経路で伝えられてきたのか」「なぜ伝えられてきたのか」といったメタ情報が必要になるということ、それはマスメディアによって伝えられる情報の一意性が疑義にかけられ、その正当性を担保する審級が既に失われていることを意味する。そしてオブジェクトレベルの情報の真偽を決定する審級が喪失している以上、メタレベルの情報の真偽を決定する審級ももはや一つには定められない。地球温暖化に関する論争などその典型例である。温暖化の証拠とその反証といわれる有象無象の「一次情報」が飛び交い、それを取り扱う「専門家」「識者」の言説がまた飛び交い、その言説についての言説もまた世に溢れている。

そしてあまりにメタレベルの情報の重要性「だけ」を喧伝すると、今度はたちまち陰謀論者がニヤニヤ笑いと共に舞台の袖からやってくる。あくまで現実の一部を切り取り判断するためのものであったはずの情報が逆に「現実」としてせり出し、価値の転倒が起こる。

ネットの情報を鵜呑みにすればメディア・リテラシーが高くなると思いこんでいる(そんな奴がほんとにいるのかどうかも分からないが)輩は、このメタレベルの情報をオブジェクトレベルにまで引き下げ、それを「本当の現実」として振り回している。ただそれも仕方が無いといえば仕方が無いことで、上記のように既にマスメディアが流すオブジェクトレベルの情報にせよそれについてのメタレベルの情報にせよ、真偽を決定する審級が一つに定まらなくなっている以上、こうした情報の転倒や、果てしなきメタレベルの議論(いわゆる「空中戦」)に突入するのは避けがたい。今たまたま読み返していた『UFOとポストモダン』の著者、木原善彦の言葉を借りれば「『個人的価値観』に基づいて各人が自分の好きな『現実』を選び取っている」状態が、社会の一部とはいえあるのは事実だ。

無論このような「情報戦」に普通の人々が耐えられるわけもない。ここでメディア・リテラシーの王道としては複数ソースの掛け合わせで蓋然性を上げる、となるのだろうが、個人的には短いスパンで見ると結構悲観的である。20年30年掛けてそうした教育をしていけばそれなりに大多数の人間が「啓蒙」されるだろうが、その時には既に情報の伝達システムが全然別のパラダイムにシフトしているとしたら。20年前と現在の違いを見れば、あながち一笑に付せる話でもないかもしれない。

となると、少なくとも短期的には「分かりやすさ」ゲームがどんどん広がっていくのだろう(現に今はそのモードだと思う)。メタ/オブジェクトを問わず情報がフラットにかつ大量に提示されている現在、望まれるのは人々の欲望にマッチし、かつ複雑な情報をお手軽簡単にまとめてくれるメディアだろう。大多数の人間の情報処理能力は20年前と大して変わっていない。しかし情報は無数に溢れている。とするとそれは必然的にマス志向のメディアになる。インターネットが普及してなお「〜のまとめ」「やるおで学ぶ〜」が人気を得るのも、結局そういうことなのだ。(ありがちな陰謀論も、ある種の人々に取っては「正しく」「分かりやすい」情報なのだ。)

マスメディアはダメだダメだといわれているが、複雑化した情報のハブ、という枠組みで考えればむしろ「マスメディア的なもの」は今後一層強く望まれるものだと思う。結局のところ見せる人間が見る人間の欲望を先取りし、見る人間がそれに応えるという共犯関係が不滅である以上、変わるのは媒体とその時々の旬のネタだけな気もする。