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報道というプロペラは誰が回すのか トークラジオ「LIFE」の秋葉原事件特集についての違和感

報道という行為の循環構造

6月22日「秋葉原連続殺傷事件」Part2 (文化系トークラジオ Life)

いつもpodcastで聞いているこのラジオ、先月22日の放送は6月8日の秋葉原通り魔事件についてだった。
その中で、サブパーソナリティの1人、IT・音楽ジャーナリスト・津田大介氏が事件とメディアの関係、端的に言ってしまえば現場にいた人がモバイルPCを使って動画でライブ中継するという行為について見解を述べていた。だがそれを聞いていて、個人的にはなんともいえぬ賛同と違和感の入り混じった複雑な感想(津田氏自身も微妙な言いよどんだような違和感を表明している)抱いた。

津田氏は、事件の当日、現場の様子をUstreamというツールを使いウェブ中継するという行為が行われたことに対し、「原始的で個人的な違和感」を表明している。そしてまたそうしたインターネットを使った個人の中継配信を従来の報道機関による報道行為と混同すべきではない、としている。

ただ。本当にそうなのだろうか。報道と個人の中継配信は違うものなのだろうか。

報道と言う行為は、何か絶対的な正当性がバックに存在しているわけではない。報道の正当性を支えるのは、まさに報道と言う行為に他ならない。彼らの報道を行うことで、情報は社会に発信され、それが行為として認知されていく。そしてその事後的な認知を元手にまた報道を行う。報道と認知との絶え間ざる往復運動、それを続けることに拠って、循環の輪を止まることなく回し続けることによって、成り立っている。それは撮る者と見る者の共犯関係、とも言える。

津田氏と同じタイミングで、同じくサブパーソナリティの斉藤哲也氏もまたこう述べている。既存の報道機関の人間はプロとしての義務感があり、責任があると。故にそうした覚悟の無い者による動画配信はまた質が異なると。

確かにプロの記者には責任がある。それは確かに個人の責任感ではなく会社に仮託されている。

ではなぜプロの報道機関には責任があるのか。
対価を貰っているから。対価を貰う以上そこに期待された仕事を果たさぬわけにはいかない。
何故対価が払われるのか。それはメディアの俎上に載せる価値があるから。
何故その価値があるのか。それはそうした情報を見たいと思う人間がいるから。
何故そう思う人間がいるのか。それはそれを報道する人間がいるから。

結局、それを報道だと思い価値を見出す人間がいるから報道をすると言う、マッチポンプの構造は変わらない。個人によるUstなりなんなりの動画中継との違いは、そこに会社なりお金なりが挟まっているか否かであり、彼らの持つ正義感であるとか、プロとしての責務のようなものが絶対的な正当性を担保するものではない。無論、メディアの歴史を紐解くとそこには近代において公共性が立ち上がってきた過程との関わりが存在したりするのだが、しかしそれは循環構造を回し始めた「出発点」「契機」であって、いざそれが回り始めたとき、その原点は循環の輪の中に溶け込み、やがて消失する。プロテスタンティズムの倫理が資本主義を駆動し、それが循環し始めた暁には、肝心の出発点であった信仰心が消失していたように。

なので報道と言う行為は、その循環構造に拠って回り続けている限り、単純な論理構造で正当化できるものでもないし、逆に否定できるものでもない。もし何か絶対的な権威があってそれが影から報道と言う行為を照らし出しているのならば、その関係性に疑義を挟み込むことで否定も出来よう。そうではない。報道に対する論理的な支えも、また否定の言葉も、この循環構造に飲み込まれ、消える。

だから、もしこのサーキットを否定するのならば、ロジックではなく感情、個人の違和感といったものでしかない。津田氏が最初に表明した「原始的で個人的な違和感」が数多く集まり、報道を見たいと思う人間が消えるとき、その循環構造は止まる。プロペラの止まったヘリコプターのように、地に堕ちる。

Ustreamによる中継は、かなり批判的な意見も集まったようで、それの多くは「不謹慎だ」とか「人としてどうなの」という、津田氏のような、ロジックではない「個人的な違和感」による者が多かった。そして恐らく、そういう人が多数を占める限りにおいて、それは報道ではない。プロペラは回らない。循環はスタートしない。なので番組内での個人的な違和感も、彼がtwitterでこぼしていた違和感も、それがそれである限りにおいて、多分正しい。逆に言えば、津田氏のような違和感を持たず、見るという欲望に肯定的な人間が多数派である限りにおいて、それは報道となる。今回はそうはならなかった。だが次は? 5年先は? 10年先は? 20年先は? それは未来の我々が決めることになる。

論理武装することの危険性

ところが、津田氏はこの話題に関する見解の最後で、個人的な違和感に敢えてロジカルな理由付けを試みる。「個人による動画中継は、ライフログであり、報道とはレイヤーの違うものだ」、と。原始的で個人的な違和感であったはずなのに、ロジックではなかったはずなのに、どうにかロジカルな理由付けを行おうとしていた。でも多分、それは当初の違和感で留めておいた良かったはずなのだ。あんなの気持ち悪い。俺は見ない。認めない。それで十分だったような気がする。

逆に既存の報道と個人の動画中継を無理やり論理的に分離させると、今度は報道があたかも絶対的な正当性のもと、勝手に動いているのだと勘違いされてしまう可能性がある。何度も言っているようにそれは違う。そしてそんな絶対的な正当性など無いからこそ、わざわざ報道の自由、表現の自由というフィクションを立て、法律で支えているのだ。逆に言えば、既存の報道だって、我々が「ないわー」と言って見ることをやめればそれは報道として成り立たなくなるし、またまともなモノを伝えていないと思えば見ることをやめてそれを潰すことも可能だし、可能でなければならない。

このようなことをわざわざ言うのは、別に僕が既存の報道機関が嫌いだからとかそういうのではない。「インターネットが世界を変えるんだ!」と叫びたいからでもない。インターネットは好きだが、昔からテレビにしろ新聞にしろ報道を好んで視聴してきた人間でもあるし、今もそうだ。
だからこそ、もし我々が報道が必要であると思うならば、それを空から降ってきた神様の贈り物かのようにその存在や正当性を絶対視、自明視してはいけないと考えている。絶対的でないからこそ、論理的に自明で無いからこそ、報道は人々の様々な努力でもって支えてきたし、今も支えられている。

報道というプロペラは回り続ける。
誰がまわしているのか。報道する者、それを見る者である。
誰が止めるのか。報道する者、それを見る者である。
なぜ回るのか。回り続けるからである。

では何故回り始めたのか?それを回そうとした数多くの人間の努力と長い時間があったから。

では今後も回り続けるのか?それは我々が決めることである。もしかしたら、もし我々がプロペラの回り方に無自覚であり、勝手に風が吹いて回っているのだとのほほんとしていたら、いつか止まってしまうかもしれない。それを強く人々が望んだ結果なら、それはそれでありだろう。けれど、「気づいたら止まっていた、止まると困るんですけど、動いてくれませんか」では遅すぎる。

「フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理」

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

1952年、後に写真史上にその名を残す写真集、『決定的瞬間』が出版される。フランス人写真家カルティエ・ブレッソンの手によるこの写真集は、しかし原語のフランス語から外国語に翻訳される際、名前を書き換えられていた。英語名は「The Disicive Moment」。日本語名「決定的瞬間」もこの和訳からとられた。所謂重訳である。だがフランス語の名前は「Image a la sauvette」、著者の訳によれば「かすみ取られたイマージュ」であった。
誰が何故このような書き換えを行ったのか。何が「かすみ取られた」のか。この写真集の持つ真の意味はなんなのか。ここから数々の名写真に秘められた本当のメッセージが次々に暴かれていく…。写真版「ダヴィンチ・コード」の決定版!



と、いうストーリーの本ではない。もちろん。ただブレッソンの写真集の名前が「かすみ取られたイマージュ」から「決定的瞬間」に変えられたというのは事実である。そしてそのことは、「写真」なるものを撮る側だけでなく見る側からも考えるとき、様々な示唆を含んでいると言える。

アートか、報道か、商品か

本書は「フォト・リテラシー」という名の通り、従来写真を撮る側に求められて続けてきた論理的・倫理的課題を、見る側からもまた考える必要がある、という趣旨の本である。

写真が技術的に普及した後、「写真は芸術か?」というテーゼが持ち上がってきた。このテーゼは暗黙のうちに「否」という答えを包含していた。20世紀に至るまで、写真は単純に芸術というハイカルチャーの下部に存在する二級品扱いだった。そしてそれに抗うため、写真はなるべく絵画に近づこうとした。様々な装飾や加工が施された。

「報道写真」は、貶められた写真と写真家の地位を向上させるための手段として立ち上がってきた。20世紀半ばまで、写真家は自分たちの撮った写真を編集段階で容易に改ざんされたり意図を捻じ曲げられたりする立場にいた。そのため1910〜20年代にかけて、ブルッソンを初めとした欧州の写真家たちは写真家による構図の保持と編集における加工の否定を掲げて「一枚の写真」の持つ絶対価値を守ろうとする。写真に「絶対的客観的真実」を読み込ませ、報道における価値と品格を与えようとした。そうした努力の中で生まれた写真群が冒頭の『決定的瞬間』である。ブルッソンは動きのある瞬間的な一枚の写真に、「現実を切り取る」写真の力を見出そうとした。

だが、と著者は続ける。そうしたリアリズム的な流れの中で立ち上がってきた「報道写真」が写真集や絵葉書、グラフ雑誌に載ることで「消費」され、普及していく中で、「アート/ジャーナリズム/コマーシャリズムの境界はきわめて曖昧」になっていく。写真は単に現実を切り取ったものではない。まず写真家による被写体の選定、構図の選定、現像時における選定、流通媒体に載せる際の選定、キャプション、などなど数多くの変数が間に挟みこまれている。また写真を展示したり掲載したりする際、どういう並び方にするかによってもまた受けての印象はかわる。そしてそれらの選定には、あらかじめ写真を見る側の「欲望」が先読みされていることがある。

リテラシーの必要性

そのような過程を知らず、「現実を切り取った」ものとして写真を無謬なるものに仕立て上げるのは危険でありまた見る側の「リテラシー」が必要だ、と著者は述べている。第二次大戦中のプロパガンダと同じ手法で大戦後はアメリカの進歩主義的「ヒューマニズム」が素朴に写真の力によって喧伝されたように、写真はいかなる恣意性からも逃れることは出来ない。そしてそうした恣意性を脱色することは、写真の「写していないこと/写せないこと=表象不可能性」を丸々見落とすことになる。戦争写真などはまさにそうである。キャパの「崩れ行く兵士」などはむしろ例外的で、戦争という極限状態は多くの場合事後的にしか映し出せない。ナチス収容所の例などがその典型例である。

また個人的にはベネトン社の広告を手がけたオリヴィエーロ・トスカーニの話も面白かった。彼は1980年代から、アパレルメーカー・ベネトンの広告を手がけてきたが、彼の作る広告は斬新を超えてショッキングであった。コンドームがひたすら並ぶ写真、血まみれのTシャツとジーンズ、母親から今取り出されたばかりの血にまみれた胎児。こうした写真の片隅にひっそりとベネトンのコマーシャルロゴが入る。ベネトンの商品とは全く関係が無い。当然、賛否両論の激論を巻き起こすことになるのだが、トスカーニにとってはむろん折込済みである。それらの写真はもし「報道写真」としてグラフ雑誌などに載っていたら、たいしたことのない写真として容易に「消費」されてしまうだろう。だがそれが「広告」という媒体を通して世に出たとき、かような苛烈な反応を引き起こす。そしてそのことは、写真そのものではなく我々見る側の意識が写真の在り様を決めているということが明らかになる瞬間でもある。

「共犯関係」の入門書として

ヨーロッパ近代写真史をなぞりながら、「報道写真」の成り立ちとそれのアートやコマーシャリズムとの不可分性、編集の際の恣意性、写真の表象不可能性などを鮮やかに、軽やかに記述する筆者の技量は読み手にリズムを与える。さくさくと引きこまれてしまう。また作品名が出てくる場合は適宜サムネイルが付いており、それだけでも門外漢には勉強になる。

ただ新書で分量が限られているため、サブタイトルにある「倫理」にまでは深く突っ込めていなかった。もちろんそれこそ新書一冊どころか単行本一冊でも全く足りない重厚なテーマであろう。一応、そのテーマを追うために参照すべきとされる本は何点か挙げられていた。ロラン・バルト『明るい部屋』、スーザン・ソンタグ『他者への苦痛のまなざし』、西村清和『視線の物語・写真の哲学』など。本書を出発点として、参考文献を当たりながら見識を深めていくにはちょうど良い入門書であった。

著者はあまり突っ込んでいなかったが、写真のみならず動画やその他のメディアに置いても「撮る側の恣意性」と「見る側の欲望」の共犯関係は常に意識する必要がある。特にインターネットの普及によってそうした関係は偏在化しつつある。秋葉原通り魔事件で現場写真を撮る者の倫理という問題が問われたが、そのような問いは報道写真の成立当初から常に生じている問題であり、それらをまず参照することが先決であろう。むしろ問題は技術の進歩により、我々見る側の「欲望」が用意に叶えられるようになり、撮る者見る者の共犯関係が偏在化したことにある。それは単純に撮る側の倫理を正すだけで済む話ではない。見る側の欲望をどう扱うべきなのか、そのコントロールの不可能性/妥当性という点も含めて考えなくてはならない。その際本書で明らかになるような、「報道写真」なるものが成立した歴史的経緯は大いに参考になるだろう。

彼は誰に「話しかけている」のか―<見る―見られる>の関係性が作り出す共犯関係

Infoseek ニュース - ニュース速報、芸能スクープなど満載

最近ワイドショーや新聞を騒がせているこの事件だが、ここまで大きな扱いをされているのは、事件の猟奇性のほかに犯人が実に「マスメディア的」なタイプの人間であることに由来するのではないか。

一方で、星島はマスコミ取材にも積極的に応じた。事件に動揺して他の住民は口が重いのに、星島だけは冗舌だった。事件翌日の19日には報道陣に30分以上も対応し、警察の捜査状況や東城さん姉妹の印象だとかをペチャクチャと話していた。

彼が「ペチャクチャ」と話していた相手は、果たして誰だったのか。テレビカメラの向こうにいる、我々である。テレビの向こうで自分のことを見(てい)るであろう、「マス」である。我々はテレビに映る彼の姿を見ることで、彼と無言の「会話」をしている。彼の姿をテレビを通じて見ることは、彼が想定した「会話」の相手として、彼の用意したフレームの中にお行儀よく収まることを意味する。

また彼は「模範的」市民も華麗に演じている。

その上、マンション周辺で警戒に当たる警察官に「おはようございます」「ご苦労さまです」とマメに声を掛け、そうした姿も不審に思われていた。

これほどまでに「マスメディア」的な規律訓練の行き届いた人間はそういない。警察に進んで協力し、好意的な「模範的」市民であり、テレビを通して「大衆」と対話する。マスメディアを介した<見る―見られる>という関係性を余すところ無く内面化した人間である。
そしてこのマスメディア的な意味での「優等生」を作り出すのは、無論マスメディアを通じて「見ること」への欲望を持った我々である。彼は我々に話しかけ、我々は彼に話しかける。彼は我々に対して振る舞い、我々は彼に対して振る舞う。この共犯関係は、マスメディアが今のままである限り、逃れられない。

ではこれがインターネットだったら? すぐに思い出されるの「くまぇり」なる放火犯が、自らのブログでその犯行を客観的事実として記していた事件だろう。

凍結されたアカウント

江東の事件では、犯人と視聴者の間にある共犯関係のほかに、マスメディアそのものと犯人の間にも共犯関係があった。彼はマスメディアがこの画像を使うだろうと考えて喋り、またマスメディアもその先読みに応えた。この二重の共犯関係によって彼と我々との「対話」は成り立っていた。
放火事件の方では、マスメディアと犯人との共犯関係はない。それを介さずとも彼女はブログを使って我々と「対話」できた。ブログを使うことで、<見る―見られる>の関係性を自らプロデュースできた。だが犯人が見る人間の欲望を先読みし、見られる者としての振る舞いを自ら規定するという図式は、マスメディアを使おうがブログを使おうが変わらない。むしろ後者の方が敷居が下がったと言える。

テレビ、新聞、雑誌、ブログ、SNS、ミニブログ、動画サイト……見る者と見られる者の関係を作り出すメディアはこれらからも増え続ける。だがどのように形を変えようとも、我々は見ることの欲望と見られることの欲望が作り出す共犯関係からは逃れられない。インターネットの普及で様々なことが「変わった/変わる」といわれる中で、僕個人は「では何が変わらないのか」を見ていきたいと考えているのだが、これもまたそうした変わらぬことのうちの一つなのだろう。

「あらたにす」と新聞−ネットの比較について

僕はいつも流行に二足くらい乗り遅れる。そういう性格らしい。

サービス終了のお知らせ : 新s あらたにす(日経・朝日・読売)

朝日新聞・日経新聞・読売新聞が共同で立ち上げたニュースポータルサイトである。
はてな界隈ではどうやら散々バッシングされているらしいが、個人的にはそこまで叩くものでもないと思う。同時にそこまで持ち上げるべきものでもない。
新聞の一面を読み比べるというのは、図書館にいかないとあまり機会がない。それを手軽にチェックできるのは便利なことだと思う。あらたにすに対する批判の中で、「RSSを吐いてない」というものがあるが、正直要らない。RSSを吐いて欲しければ、各新聞者のサイトに行けばRSSが取得できる。三ついっぺんに吐かれても読めるのは一つだけなので、こうしてインターフェイスのできちんと比較できるようになっているのは面白い。

あとあらたにすが依然として押し付け的なニュースの読み方しか提示していないという意見もあるが、それは仕方ない。テレビ局にしたってそうだが、一民間企業であり、企業からの広告を掲載して営業している以上、新聞記事に100%の中立と言うのはありえない。必ずどこか抜け落ちる部分、社によって差が出る部分がある。そうした差分を考慮して人々は新聞を選ぶべきであり、またインターネット上のコンテンツはそのような抜け落ちた部分、社による差を上手く補完する役目は果たしている。だが依然インターネット上のコンテンツは二次情報以上のものばかりであり、(少なくとも日本においては)一次情報への接触は職業記者の手によるところが大半である。

新聞記事が、あくまで事実の捉え方の一フレームでしかないのと同じように、インターネット上の情報もまた情報の捉え方の一フレームでしかない。一次情報に触れられない以上、我々は何らかのフレームを通してしか情報に触れることが出来ない。どういうフレームで情報を捉えるかは、選んだ新聞やネット上のコンテンツによるだろう。だがそれらのどれかが優れていてどれかが劣っているという考え方は、現状ではそう判断する材料はないと思う。

新聞とネットという対比において、ネットの優勢がはっきりしているのはコンテンツうんぬんというよりビジネスモデルの話である。インフラとしての性能は、紙をバイクで届けるよりネットで配信したほうが効率的なのは当たり前で、新聞記事にバカ高い金払って広告載せるよりは、グーグルのアドワーズ使う方が効率的な場面が多々出てくる。そしてそうした兆候は今後逆戻りする可能性はほぼゼロで、今のトレンドが将来的にさらに徹底される見込みしかない。こうした中で新聞のビジネスモデルの凋落というのは確かにその通りだと思う。しかしインフラの優劣とコンテンツの優劣を履き間違えてはいけない。確かにインターネットというインフラの特性は、コンテンツに対する評価方法を変えた。だが評価方法が増えたからといってそれまでのコンテンツの価値が下がったわけでも、またコンテンツの評価方法の価値が下がったわけでもない。選択肢は増えた。それは何かの価値が下がって何かの価値が上がったことを示すわけではない。

「ウェブ炎上」と「嗤う日本の『ナショナリズム』」

このカテゴリでエントリ書くのは久しぶり。本読んでいなかったわけじゃないというか、むしろ最近では今が一番本読んでるんですが、うまいことまとめられない。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

さてこの「ウェブ炎上」、著者の荻上チキについては彼の実名を某学者がバラしただなんだで彼自体が炎上気味という、洒落にならない事態もあったがそれはさておき。
内容自体は、そこまで斬新で重厚なことを言っている訳ではない。帯にある「ネット時代の教養書」というコピーが全てを表している。ウェブ上における人々の行動原理を、社会学やマーケティングの用語を駆使しながら、概論的に解説している。「社会学やマーケティング」の言葉は別にネットが出てくる前から存在したものだ。なので目新しいことはあまり無い、と感じるかもしれない。おそらくそれがこの本の言いたいことの一つだろう。ウェブというインフラは確かに新しいが、そこで起きる現象はウェブ以前に起きた現象とそう変わらないし、これからもおき続けるだろう、ということだ。なので内容としては目新しいことがなくて当然と言えば当然かもしれない。

ただ著者の徹底した「現象」そのものの分析にこだわる態度は、これまでのウェブ論とは一線を画す部分もある。彼はこの本の中で、あくまで人々の行為レベルに着目し、ウェブ上の「力学」の分析に務めている。例えば2ちゃんねるに代表されるような「祭り」のコミュニケーションについても、「何故『祭り』に参加するのか」「そこに一体感を求めているからだ」といった個人の意識レベルの話はしない。*1

本人の「意図」としては単に「面白いから」であっても、それが別のコミュニケーションに「つながる」ことで、政治的な意味を持つこともあるのです。*2


これは、同じ2ちゃんねるの分析をする北田暁大とは好対照である。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

彼は著書「嗤う日本の『ナショナリズム』」の中で2ちゃんねるのアイロニカルな作法に満ちたコミュニケーションを、「ロマン主義的シニシスト」が「正当化可能であるか不確定でしかない他者の行為に接続される可能性に動機付けられつつ、行為に踏み出すこと」であるとし、さらにこう評する。

かれらの「超越的・代替不可能な他者」なきアイロニー・ゲームの空間のなかでは、認知の水準/行為の水準の区別、そしてアイロニー(虚構を虚構としてみること)/ベタ(虚構を現実と同一視すること)の区別は失効し、アイロニカルであることの困難が前面化する。かくも困難な状況のなかでなおも「アイロニカルであれ」と命じられた主体、それがロマン主義的なシニシストなのである。*3

荻上も北田も、2ちゃんねる的コミュニケーションがもはやネタ/ベタの区別の付かない次元にあるという点では一致している。しかし北田は、その困難な状況の中でもそれはアイロニーという「作法」に拠るコミュニケーションであると述べるのに対し、荻上はあくまで行為の連鎖による「力学」に基づいた分析をする。「作法」か「力学」か、雑駁に対比すればこうした図式になる。
これはどちらが正しいというわけではなく、どのような分析方法を採用するか、という違いでしかない。ただウェブを論じるということになると、ウェブの性質上後者が有利ではあると思う。ウェブは行為と行為が接続するコストを格段に下げ、かつその接続を全て可視化する。そこには「作法」を織り込む前に反射的に行為が接続する可能性が存在する。だとすれば、分析を行為レベルに引き下げてしまう方が、分析方法としてはより多くの事例を取り込むことが出来るのではないか。

*1:ここら辺は文化系トークラジオ Lifeの「暴走するインターネット2.0」でも本人が述べていた。

*2:p.190

*3:pp.222-223

「新聞社―破綻したビジネスモデル」

デザインを変えました。文字が小さくなったが、長文を書きがちなこのブログにはあっている気がする。

さて、今日は某大手マスコミの説明会もどきに参加してきた。だからというわけではないけれど、ネットの隆盛で危機に瀕しているといわれている新聞社について、実際に現場にいた人間が書いた本を読んだ。

内容

この本の著者の河内氏は、元毎日新聞社取締役。ただし毎日新聞の話だけでなく、新聞業界全体の構造について書いている。朝日、読売、産経、毎日、日経の現状、各新聞の経営状況、テレビ・ラジオとの結びつきなど。
特に新聞社が、各販売店に対して注文以上の部数を押し付ける「押し紙」の問題は興味深い。部数獲得競争が激化する中で、とにかく部数を上げるため、「押し紙」をしてでもとにかく新規の顧客を開拓させた。これによって、新聞の公称の発行部数と実際の販売部数には開きが生じている。*1そして新聞社は正確な販売部数がバレるのを恐れている。実際の販売部数が公称より少ないと分かれば、当然広告主から文句を言われるからだ。


そして部数獲得競争のもうひとつの弊害が、本社が販売店に払う莫大な販売促進費という名目の補助金である。様々な名目で本社は販売店に補助金を出し、その補助金によって販売店はどうにかこうにか黒字を維持している状態らしい。
しかし、こうしたやり方は新規顧客がこれからも伸び続けるという前提に成り立っている。人口上昇が止まり、現象に向かう中、新規の顧客は限られている。押し紙をするのは良いが、それが売れない。それでも補助金は出す。結果、本社の金で自分のとこの新聞を買うという「たこが自分の足を食う」状態が発生していると言う。

新聞がいかに生き残るのか

書かれていることを鵜呑みにするならば、確かにもはや新聞社のビジネスモデルは破綻寸前である。企業からの広告費も買い叩かれている状況だという。
だが、そうした状況に対する解決策が本書の弱いところである。筆者が「新聞の復権」をどう行うかを説く部分で、こう書いている

新聞の機能とは何か、を突き詰めれば、プロの記者が記事を書き、対価を払ってそれを入手したいと思う読者がいるかどうかです。紙に印刷されているのか、ネットで見るのか、戸別配達されるのか、コンビニで買うのか、それらは二次的な問題に過ぎない。

確かに新聞のジャーナリズム的機能として考えれば、これは間違っていない。だが筆者が本書でそれまで指摘してきたのは、ジャーナリズムとしての機能の衰退ではなく、ビジネスモデルとしての新聞の危機である。新聞は「紙に印刷されている」という「二次的」な側面を全面に活かしたビジネスモデルであった。紙に印刷されているから、各家庭に配達できるし、またその需要が生まれる。紙に印刷されているから、広告が大きく載せられ、その受容が発生する。なのに、その要素を「二次的」とばっさり切り捨ててしまうのは、視点がずれている気がする。確かにジャーナリズムは紙だろうがネットだろうが電波だろうが変わらないだろう。だがそれを使ってどう金を稼ぐかというのは、そのメディアの形式的な部分によっているところが大きい。
そして新聞社が紙という媒体にこだわって商売を続けようとするならば、おそらく新聞の生き残る道はステータスシンボル化を伴う、顧客対象の絞込みになるのではないだろうか。「EPIC2014」という動画では、新聞は将来高級化し、一部のインテリ層を対象にひっそりと生き残るという未来図が描かれている。一方で、本書には以下のような記述もある。

いまや新聞の最大、最良のお客様は60歳以上の高齢者で、年金生活者の比率はうなぎのぼり。だとすれば、新規読者に三ヶ月無料サービスといった姑息な手ではなく、恒久的に高齢者を優遇する価格政策が必要になる。

ここでは高齢者を「年金生活者」という括りで見ている。おそらく著者が想定しているのは高級化ではなく低価格路線だろう。しかしそうなると最終的に安売り合戦で勝つのは体力の大きいところであり、朝日・読売・その他という三つの塊に落ち着くのだろう。
以前だったら、そうした結論に僕は首をひねっただろう。だが本書を読むと、「それも仕方ないか」と諦めたくなる気持ちになってくる。それほど現状の新聞社のビジネスモデルには絶望しか見えないのだ。

何故新聞を読まないか?

今の若い人は新聞を読まないという。それが真実だとするならば、それも仕方ないことだと思う。確かに新聞が好きな人は、「ネットやテレビにない面白さがある」という。文化面や書評、社説なんかは新聞にしかない面白さだろう。
だが、多くの人はそうした新聞の「ニュースソース」としての機能以外の部分を、上手く使いこなせていない。ほとんどの人が、日々のニュースのチェックにしか使っていないのではないか。そしてそうした用途ならば、インターネットのニュースサイトをRSSリーダに登録すれば事足りる。それだけでは深みが足りないというならば、知りたい分野について書いてあるブログを読むなり、新書をいくつか買うなりで満足してしまう。

高級化にしろ低価格路線にしろ、みんなと話題を共有するためのニュースチェックであれば、もはや新聞に頼る必要は無い。新聞が新聞足りえるには、新聞にしか出来ないことを探す必要がある。*2

*1:ただし新聞社は公にはそれを認めていない

*2:それがあるのかは疑問だが

音楽とアウラ

アルバムを無料配布したPrinceの戦略(1) « WIRED.jp Archives

最近感心したエントリがこれ。
要はプリンスが自分の最新アルバムをタダで配り、その後行われるライブでペイしよう、という作戦に出たという話。

Princeの新戦略が成功しているのは、このデジタル時代に価値を失いかけているのは楽曲そのものではなく、そのコピーだということを認識しているためでもある。アルバムは、発売から時間がたつほど、友人のCDにせよ、見知らぬ他人の共有フォルダにせよ、リスナーがコピー源を見つける可能性が高くなる。だが、そうしたコピーの価値がどんどん低くなれば、最終的にはオリジナルのみが価値を認められる。PrinceがMail on Sundayに売ったのは、まさにこの「コピーの発信源になる権利」だ。

コピーが氾濫することで、オリジナルの価値が下がる、というのがこれまでの音楽や映像についての通念であった。ところがここでは、「コピーが氾濫することで価値が下がるのはコピーである」という大きな転換がなされている。確かに、オリジナルがオリジナルと認識される限り、コピーがコピーである限り、増え続けるコピーは価値を下げ、相対的にオリジナルが価値を上げていく。ただしこの「オリジナルがオリジナルと認識される限り」というのが問題で、文中にも「コピーの発信源になる権利」という言葉が使われているとおり、何がオリジナルなのか、という定義の問題に悩まされることになる。


この限りで言えば、ショップで買ったCDも、winnyで手に入れた音楽データも同じコピーである。プリンスはライブという形で「コピーの発信源」たる価値を維持しているが、これはライブという形式の「一回性」、つまりアウラに拠っている。音楽を観客の前で生で流し、生の声を聞かせるというのはさまざまな意味で一回性を有しており、これは有効であろう。
ところがこうした戦略の先にあるのは、「誰がアウラを持つのか」という、一回性の奪い合いである。確かにライブは二度と同じ雰囲気は作れない、ゆえにアウラを持つ。ではそのライブを録画した映像が一度だけTVで配信されたら?それを録画したデータが一度しかコピーできなかったら?


いずれこのアウラをめぐる戦いは、メディアのテクノロジーによる囲い込み合戦になるだろう。いずれ、というか、すでに顕在化した問題であるコピーワンス問題(9回までコピー可になったが)は、こうした「技術によってアウラを囲い込む」という観点から「ずるさ」を感じる面がある。「そのアウラは本来お前のものではないだろう?」と。