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Context of Democracy

夕張市についてのニュースは、こういっちゃ不謹慎かもしれないが日本の様々な切り口を見せてくれるようで、有る意味面白い。
財政破綻の責任について、「当時の市長は何をやっていたんだ」「自分達で作った借金は自分達で返せ」と市側に詰め寄る市民。ただこうしたロジックはおそらく通用しない。借金を膨らませた乱脈経営の責任が当時の市長達にどれだけあったとしても、それが特定の個人の利害に絡むような「背任」の形でない限り、本来その責任は「市長」としての立場で糾弾される。例えば個人の資産で返済しろとか、民事で当時の市長を訴えるとかそうした「私人」の立場で責任を追求するのは無理がある。それが現代の間接民主主義の大原則だ。

ところで「民主主義」という言葉を考えるとき、2つのイメージが浮かぶ。多数決に代表されるような、多数派の意見が採用される「民主主義」と、少数派の権利もきちんと認めるという「民主主義」。一見すると相反するような意味を持たされている。
これは対義語を考える、というか文脈を考えると分かる。前者は絶対王政のような専制に対しての「民主主義」であり、後者はナチスのような全体主義に対する「民主主義」。このとき重要なのはいずれにおいても「民主主義」が確立される/回復されるには何らかの「抵抗」が必要だったということだ。民主主義はお祈りしたら空から降ってくるものでもなく、それを訴求する者達が実力を持って勝ち取るものだった。

こうした点から見ると、明らかに無謀と思われる夕張市の観光計画が立てられたとき、そこに「抵抗」を加えなかった市民の間に民主主義はなかったとも言える。丸山眞男の言葉でいう「権利の上に眠った者」である。
だとするならば、彼ら夕張の市民を「眠らせた」のはいったい誰か。敢えて「悪者探し」をするなら、そうした民主主義をうまいこと沈黙させてきた人間なり制度なりを糾弾すべきではないか。そして我々部外者が「第二、第三の夕張を生むな!」と声を上げるとき、それは「権利の上に『眠らされた』者を起こすのだ!」という意味で語られるべきだ。
にも関わらず市民からもメディアからもそうした声が上がらず、ただその悲痛さが叫ばれるのは、当事者も部外者も一種の「諦め」に身を投じてしまっているからなのだろうか。