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我々は何を隠してきたのか、あるいは「不可能性」の変遷

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

大澤真幸『不可能性の時代』を読み返していた。つらつらとメモ程度に。

不可能性―現実と反現実の乖離

東浩紀木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。)

大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコーヒー」のような徹底した形式への没入という「極端な虚構化」に現代社会が引き裂かれている、と指摘する。
生々しく、時に暴力的な「現実」への欲望と、コーティングされ、美しく安全な「虚構」への耽溺。これら二つの相反するベクトルが同居する現代社会は、つまるところそのどちらの視座にも捉えられない、<現実>を隠蔽しているのではないか、と彼は述べる。現実にも虚構にも捉えられぬ<現実>は、その名のとおり名状しがたい「不可能なもの」である。大澤はここから「虚構の時代」に続く現代を「不可能性の時代」と名づける。

理想の時代においては、理想は反現実でありながらしかしまさに反現実として参照されることで、現実へのフィードバックが存在した。虚構の時代においても、それは理想の否定形として、逆説的に現実へのフィードバックが存在した。ところが不可能性の時代においては、我々はそもそも「反現実」を参照することができない。極端な「現実」と極端な「虚構」へと視線がするりするりと逃れてしまう。大澤が不可能性の時代は最も反現実の度合いが高い、と述べているのは、この現実と反現実の極端な乖離ゆえである。

理想の時代における<不可能性>

さて彼は相反する二つのベクトルから逃れる<現実>をXと措き、最終的にそれは<他者>であるとしている。

人は、<他者>を求めている。と同時に<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないか。*1

「現実化」と「虚構化」の二つのベクトルから逃れ行く、別の言い方をすれば実践と認識から逃れ行く<現実>を、何が不可能なのかというその主語を彼は<他者>と措く。第三者の審級無き現代において、<他者>と関わるには直接的な接触とその負荷との間で板ばさみになる。極端な「現実」への欲望は<他者>への欲望でもあり、そして極端な「虚構」への耽溺は<他者>からの逃避でもある。結局のところ欲望と逃避に引き裂かれ、我々は<他者>と出会うことはできない。

ここで一度大澤の議論から離れる。理想の時代が終わり、虚構の時代へと移り変わっても、「理想」そのものは有効だった。それは単に個人の志向するものとなり、社会的な「反現実」としての機能を失っていただけである。同様に虚構もまた虚構の時代以外にもそれ自体は失効していなかった。とすると、現実と虚構から逃れ行く「不可能性」もまた不可能性の時代以外でも存在したのではないか(不可能なものが存在するというのもまた矛盾した言い方だが)。
不可能性の時代において、「不可能なもの」とされたのは<他者>であった。では理想の時代において「不可能なもの」であったのはなんだったのだろうか。一つ提示したいのは、<自己>である。1945年から1970年前後までの「理想の時代」において、敗戦という現実からスタートした日本人は、当初は迫り来る死から逃れるようにひたすら「生」を目指した。生きること。服を着てものを食べ家に住む。この「生」という究極の現実への欲望は、戦後の困窮期を超え高度経済成長時代にも引き継がれた。
敗戦からドライブされた現実への欲望がある一方で、敗戦からドライブされた虚構への逃避もまた存在する。戦後、戦争の恐怖は様々な形で虚構の中に埋め込まれた。分かりやすいのは1954年公開の特撮映画『ゴジラ』である。人々が必死に生という現実を生きる一方で、戦争の恐怖、特に核への恐怖は虚構の中で日本人を蹂躙し続けた。しかしその恐怖はアメリカという具体的な名前ではなく、ゴジラという架空の生物に背負わされた。

敗戦から始まった、生という現実への欲望と戦争の恐怖の虚構化は、しかし理想の時代が終わりに近づくにつれ、自己目的化し、それぞれ極端になっていく。死から逃れるための生であった人々の生活は経済成長によって自己目的化し、生活のための生活、成長のための成長へと近づいていった。『ゴジラ』もまた、シリーズの回を重ねるごとに戦争の恐怖は薄れ、ついには子供のヒーローという極端な虚構へと向かう。虚構のための虚構である。

この現実の極端化と虚構の極端化という構図は、時代が違うのでそこで参照される現実と虚構はそれぞれ違うものになっているものの、大澤が本書で指摘した不可能性の時代におけるそれと相似形である。
そして理想の時代における不可能なもの、極端な現実化と極端な虚構化に引き裂かれしもの、それは<自己>であろう。1945年当初は<敗者>というアイデンティティを保ちえていたこの国は、そこからスタートした現実への欲望と虚構への逃避が次第に自己目的化していく。その過程で<自己>、つまりこの日本という国は果たしてなんなのか、日本人としての私達は一体なんなのか、そうしたアイデンティファイを経て形成されるはずの<自己>は、隠蔽され続けていった。<敗者>としてのアイデンティティは、死から逃れる生への欲望に拠って、また一方でトラウマ化した戦争への恐怖に拠って担保されていた。だが前者は経済成長によって薄まり、後者もまた虚構化が徹底されるにつれ薄まっていく。日本も、日本人も、<自己>は隠されていった。

<自己>と<他者>の間にあるもの

理想の時代における「不可能なもの」が<自己>であり、不可能性の時代における「不可能なもの」が<他者>であるとすると、間にある虚構の時代における「不可能なもの」はなんなのか。もはやここからは完全な言葉遊びに過ぎないのだが、<自己>と<他者>の間に存在するのは何かを考えると、<世界>とか<社会>とかであろうか。つまるところ第三者の審級の隠蔽そのものである。
戯言を続けるなら、<自己>を隠し<世界>を隠し<他者>を隠してきた我々は、次なる時代において何を隠すのか。1大澤の区分で言えば、不可能性の時代が終わるのは2020年前後。もうこうなってくると隠すものはなくなって、どこぞの危ないカルト宗教のように「2020年に地球は滅ぶ!」とでも言ってみたくもなる。いや無論滅ばれては困るのだけれど。

*1:本書p.192