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現代版『自由論』としての『CODE』―グーグルストリートビューが教えてくれたこと

グーグルのストリートビューの議論は特に興味が持てなかったのだけれど、id:SURViVEで今晩これについてのustreamをやるようなのでメモ程度に。

Googleの「ミッション」としてのGSV

グーグルストリートビュー(以下GSV)はリリース以降、各国でプライバシーについての議論を巻き起こしている。日本でも目立つものだとMIAUによるシンポジウムが開かれたりと、専門家、ユーザー問わず議論が活発である。
GSVにまつわる議論の核は、「主体無きプライバシー侵害」である。GSVをプライバシーの侵害と位置づけようとも、では果たして侵害しているのは誰なのか? Google? ではその意図は? 意志は? 不明である。明確な意思に基づいた個人でも組織でもなく、GSVがもたらすのはただ機械的に巡回しクロールされた風景である。撮影基準が不明瞭、という指摘があるが、であるがゆえにますますもってgoogleの主体性は霧散していく。
 主体性の無さ、という観点からすれば、GSVの論点の多くはgoogleというサービスが誕生してから常に存在し続けていたものだということがわかる。ジャーナリストの佐々木俊尚氏は従来のgoogleを「身内」的感覚でユーザーが捉えていたというが、多くのユーザーにとってそれは妥当ではない。確かに創始者のラリー・ページとソルゲイ・ブリンはカリスマ的なエンジニアでカルフォルニア・カルチャーの中では「身内」だったかもしれない。だがサービスとしてのgoogleを支えていたのは、「あらゆる情報をあらゆる人々が簡単にアクセスできるよう、整理する」という「ミッション」である。彼らはこの「ミッション」という言葉にことさらこだわる。彼らが「ミッション」を進めるとき、「合目的的な意志を振りかざす者としての主体性」は見えない。アーカイヴ化という行為は本来手段であり目的ではなかった。手段と目的が接着したとき、googleの主体性は「ミッション」の中へと消えていった。そもそもインターネットというシステムそのものが、従来想定されていた合目的的主体、という概念をなし崩しにしてしまったことを考えると、それもまた必然であったのかもしれない。(無論、googleといえど私企業であり利益の追求という合理的な目的は持っているが、彼らはそれを「ミッション」と上手くマッチする形で組み込んでいる。)
 多くのネットユーザーにとって、ブログやウェブサイトの管理人にとって、googleは「身内」などではない。そこに我々が直に相対せるような「主体」はない。あるのは不明瞭なアルゴリズムとそれが作り出した「検索結果」という秩序だけである。GSVにおいてもまた、あるのは不明瞭な撮影基準とそれに基づいた生み出された無機質な風景画像である。

主体性無き<他者>をどう捉えるか?

それにしても、時たま見られるGSVに対する「嫌悪感」は、どこからやってくるのだろう。それは「撮られる事への不安・不信」というより、「撮る者への不安・不信」という風に見える。
秋葉原事件の際、事件現場をケータイのカメラで撮る人々が「不謹慎」であると非難された。こうしたバッシングはカメラが携帯可能になって以降、星の数ほど繰り広げられてきた。何故こうしたバッシングは起こるのか。
スーザン・ソンタグの論を持ち出せば、写真を撮るという行為は、撮る者をファインダーの向こうの現実から「疎外」する。撮る者はファインダーを境にその向こうの現実に対する絶対的な<他者>となる。
撮る者に対する嫌悪感、というのは、結局のところ「撮る者はそこにある現実から疎外されてはならない、<他者>になってはならない」という直感を覚えるからだろう。もしGSVの「撮る」という行為に人々が嫌悪するのだとしたら、それはGSVの相対化しがたい<他者>性に由来するのだろう。
しかし何度も述べたようにGSVに主体性は無い。主体無き他者。そしてこのフレーズはインターネットの「中」についての議論では散々使い古されたオモチャである。またインターネットとは関係なくとも、監視カメラや生体認証システムとセキュリティの関連でやはり「主体無き他者」の存在は散々問題にされてきた。GSVの登場で巻き起こる議論は、このようにインターネットの「中」と「外」ではかなりデジャヴューものである。GSVはその「中」と「外」を架橋するという点で確かに新しいといえば新しいのかもしれないが。

『CODE』は現代版『自由論』である

長ったらしく書いたが、要はGSVの議論は根本的にはGoogleが誕生した瞬間からあるもの(あるべきもの)であり、どう転んでもイマサラ観はぬぐえない、ということだ。細かい仕様はともかく、GSVのあり方を根本的に「問題だ!」というならば、それこそ「遅すぎる」。Googleの「ミッション」は、既に引き返せないところまで進んでいる。そして成否を決めるのはgoogleという主体的な存在ではなく、ユーザーである我々であり、googleの技術であり、(一応)既存の法であったりする。「主体的な組織vs主体的なわたしたち」という二項対立に基づく議論はもはや成り立たない。ユーザーのニーズや技術、法といった複数のファクターを独立させた上でその関係性を見るという形にしないと、議論そのものがまったく見当違いな方向に行ってしまう。
18世紀、ヨーロッパ人は「市民」という概念を打ち立てるとともに、彼らの自由を侵害する主体を国家だと捉えた。19世紀、国家のみならず個人もまた個人の自由を侵害する主体と捉えられた。J.S.ミルの『自由論』である。そしていまや、自由はもはや主体無き主体によって侵害される。いやもはや侵害とすら呼べぬかもしれない。こうした時代にあって、GSVが教えてくれたことの一つはR.レッシグ『CODE』は現代版『自由論』なのだろう、ということだ。