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トライヴ/リアル/サバイヴ――『リアルのゆくえ』から

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

amazonの商品説明にある「「わかりあう」つもりのない二人」という表現がぴったりの本。
東浩紀大塚英志が四章300ページ超に渡って喧嘩する本である。逆に言うとそれしか載っていない。

公共性は在り得るか

両者の違いは至って明確。文化、国家、論壇、さまざまな話題で彼らは対立しているが、その中心軸は「公共性の有無」である。大塚はアニメにせよ漫画にせよ、「作家」というパブリックな存在の重要性を強調し、国家論においては「公民」、社会のパブリックな側面にアクセスする態度を市民が持つことの重要性をとく。一方で東は、そうした個人の興味関心の幅を超えて社会のパブリックな側面にアクセスする人間を作り出すのは無理だ、という一種の「諦念」を持っている。
日本社会の現状に憤りを感じつつも、その先について大塚は「公共性の復活」を、東は個人がプライベートに生きていても社会が回るような「グーグル的民主主義」を唱える。こうして彼らの理想像だけを取り出してみると、前者のがまだ現実的で後者はかなり理想が過ぎるというかSF的であるようにも思える。
しかしその認識は逆であると思う。二人の掲げる理想の乖離は、現状認識の乖離にある。大塚の語る理想は一見東より現実的に見えて、実はそもそも前提となる現状認識が現実から少し浮いている。一方東の語る理想は本当に理想でしかないが、しかしその滑稽にも思える理想は、徹底した現実への諦念から生まれている。彼の「公共性とか無理でしょう、公民とかねーよ」的なあきらめは、大塚のそれより徹底的でかつ現実的である。そのような諦めが前提としてあるがゆえに、出てくる理想は本当に理想的でしかない。それくらいしかおそらく解決手段は無いと思わせるくらいに。

可視化された断絶

デカイ国家論を語るわけではないが、少なくともインターネットの世界においては、大塚の言う「公民」なるものはほぼ不可能だと言ってよい。ある一つの同じトピックでも、2chとはてな村mixiとではそこで交わされる言説はまったく相容れないものであり、断絶している。ここにネットに触れない高年齢層の話を加えるともう絶望的である。
そしてインターネットの特徴は、こうした島宇宙ごとの断絶が可視化された点にある。インターネット以前も無論別体系の言説領域に属する人々の間の断絶などいくらでもあったが、インターネットの普及でその断絶がはっきり目に見えるようになった。可視化以前はたとえ断絶していてそれが不可能であっても「公的であろう、全体への志向を持とう」という言説が有効「かのように」見えたが、可視化以後はそれすら失効する。自分の言葉を別の言説領域の人間に伝え、理解してもらうことなど、不可能のように見えてしまう。そうであるからこそ、本書で出てくる「私的であるがゆえにむしろ公的」という逆説が有効になる。きちんと自分の言葉を伝え、相手の言葉を理解しようとすることは、自分たちのいる島宇宙内でしか有効でしかないが、逆に島宇宙の中ならば言葉は伝わる。それで勘弁してください、それ以外方法が無いじゃないか、と。宇野常寛の言う「サバイブ」というのも結局この島宇宙の中でどう言葉を発するのか、コミュニケーションしていくのか、という話になる。

ショーとしてのサバイヴ

先日『スカイ・クロラ』の二回目を見てきた。ここで描かれる「戦争」は終わりのない「ショーとしての戦争」であり、人々に生きているという実感を与えるための戦争であるのだが、僕個人の話をすると、ある規律だった軍隊が同じく規律だった軍隊と大規模に正面衝突する、という戦争は実はあまりリアリティを感じない。僕は86年生まれで、湾岸戦争の報道は目にはしているのだろうが覚えていない。なので初めて大規模な戦争らしい戦争をはっきりと認識したのは、911以降のアフガンおよびイラクでの戦闘である。そこで見たのは規律だった軍隊に対し規律の低い個別の部隊がバラバラにテロをしかけるゲリラ戦だった。そこでアメリカに立ち向かう原理主義者たちは、自分たちの認識しているイスラム的な世界とキリスト教的な世界を完全に断絶したものとみなし、その上でアメリカのグローバリゼーションと言う「侵略」に憤ったのであった。
ここにあるのは島宇宙ごとの断絶と、その断絶のみを認識する「断絶についての全体性」である。前述の東や、決断主義的に「サバイブ」する者、また件の加藤智大などを支えているのもこの「断絶についての全体性」である。世界は島宇宙、つまりトライヴごとに断絶している。自分のトライヴの中でどうにか上手いこと生きていくか、さもなくば別のトライヴに殴りこみをかけるしかない。WTCに突っ込むのか小学校に突っ込むのか秋葉原に突っ込むのか、それはたいした違いではなく、構図そのものは一緒である。
スカイ・クロラ』の世界の人々は、キルドレたちの戦争を見てリアリティを感じるかもしれない。だが僕らはあんなばかばかしいほどに正面切った戦争で果たしてリアリティを感じるのだろうか。否。僕らがよりリアルに思えるのは、トライヴの中で上手く人生をやり過ごす神プレイヤーか、トライヴの間を暴力的に架橋するテロリストだ。
秋葉原事件は、そうした感覚の下に生きる人たちにとっての「ショー」であった。無論実際に人が殺されている以上フィクションと同列にするわけにはいかないが、しかしほとんどの人はあの事件の「当事者」ではない。ある者はテレビの画面の向こうに、ある者はustreamの画面の向こうに、ある者はケータイ電話のカメラのファインダーの向こうに、その「ショー」を見たのだった。
あの事件が報道されたりネットでの俎上に載るたび、彼の人生はあたかもあるゲームの1プレイヤーが残した「リプレイ」として頒布される。彼のリプレイはたいがい「ゲームオーバー」扱いされるのだが、逆にケータイ小説などは上手くトライヴの中でやりくりして「アガリ」に行き着いたリプレイとして認識されているように思える。
このように僕らの世代はもはやトライヴごとの断絶など折込済みであり、東のような「諦念」すらない。そこで求められる「ショー」、僕らのリアリティを支えてくれるようなフィクションは、こうしたトライヴ内の神プレイヤーかトライヴを架橋しようとして爆発した者の「リプレイ」であろう。