絶倫ファクトリー

生産性が高い

テロとしての『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

今週の「自己啓発トークラジオ SURViVE」で『ゼロ年代の想像力』を取り上げるらしいので、メモ程度に。
本の内容そのものについては、id:sakstyleによるエントリが参考になる。またそのほかにもいろいろ議論が出ているのでそこらへんには触れない。代わりにこの本の及ぼした影響についてちらほら。

ゼロ年代の想像力』という本は、批評界における自爆テロだと思う。そもそも「批評界」なるものがどこにあるのか、と言われれば、それは結局この本の持つ暴力性によってようやく浮き彫りにされた、と言うと怒る方がいるだろうか。

テロとは暴力であるが、単なる宙吊りの暴力ではなく、外部に思想・宗教などのコンテクストを要求する暴力である。そしてそのコンテクストは、テロの対象となった事物の破滅を持ってして(一時的にせよ)完結する。主体が客体を暴力で持ってそのイデオロギーの中に引きずりこむ。911はイスラム原理主義というイデオロギーの中にアメリカを引きずりこんだ。それは、外部の人間からすればアメリカという国を見るための新しいリアリズムの誕生であった。

宇野常寛が放った『ゼロ年代の想像力』という爆弾は、一部の批評家と呼ばれていた人々の間に苛烈な反応をもたらした。彼らはその時点で宇野のコンテクストに引き込まれたのであり、外部に立つ我々からすればそれは批評というものを見るための新しいリアリズムが生まれた瞬間である。WTCに旅客機が突っ込んでようやく、隠蔽されていた「グローバリゼーションの枢軸としてのアメリカ」という姿が見えたように、『ゼロ年代の想像力』は「それまでの批評」の姿をようやく白日の下に晒した。

これは別に本書やその著者宇野常寛を称えるものでも、罵倒するものでもない。イデオロギーの善悪の問題、本の内容の良し悪しの問題は別のレイヤーにあるし、ここで論じている話とは関係が無い。ただこの本がどういう形にせよ一定のプレゼンスを持ったというその事実が唯一の判断材料となる。神々の闘争において量られるのは力の大小のみである。

ただこれは911のように異教徒への暴力ではなく同じ批評のフィールドで行われたものである以上、それは自らの立つ地面を崩落させる危険性もある。その結果は今後歴史が証明してくれるのだろう。