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「春の文学フリマ2008」に参加します

文学フリマ - 文学フリマ公式サイト-お知らせ

「春の文学フリマ2008」開催決定!
開催日時 2008年5月11日(日)
開場 11:00〜終了16:00
場所 東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室
(JR線・東京メトロ日比谷線 秋葉原駅徒歩1分、都営地下鉄新宿線 岩本町駅徒歩5分)
※入場無料、カタログ無料配布、立ち読みコーナーあり

logical cypher spaceのシノハラユウキが主宰する批評系サークル「筑波批評社」に加えてもらっています。今回の文学フリマでは、批評系同人誌「筑波批評2008春号」を販売します。

ブース番号:B-56(会場地図
サークル名:筑波批評社公式サイト

GW中、しばらく我が家にプリンタとPCを集めてみんなでシコシコ編集作業をしていました。僕は大体寝オチしてましたが。
その甲斐あって先日ほぼ編集作業を終えることが出来ました。
これがその目次になります

特集はR・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を読んでの座談会です。計六時間、単純に文字起こしして6万時にも及ぶ大長編をどうにかこうにか同人誌の体に収まるくらいに仕上げてあります。ローティの思想を改めて問う形になっており、非常に中身が濃いものとなっております。是非ご一読を!

ちなみに僕個人は「アイロニカルな共同体―その成立条件」という論評を書かせてもらいました。ローティ的なアイロニーの行く末に果たしてどのような社会が待っているのか、という射程を示そうと意図です。もちろんそこまで大きなことは言えないのですが……。

他にも文学評論からマッチョ・ウィンプ論まで幅広くかつ深い評論が盛りだくさんです。かなりボリュームのあるものとなっているので、是非皆様足を運んでいただければと思います。

「戦後」の<歴史>化

先日ゼミで先生に言われて気づいたのだが、そういえば「戦後」という言葉を最近とんと見なくなった。中曽根首相が「戦後政治の総決算」という言葉を使って以降も、メディアでは自分たちの現在生きている時間を指して「戦後」と呼ぶことはあった気がする。

メタヒストリーという立場に立つと、これは「戦後」なる時間が過去のものになったということを意味する。ではいつから「戦後」ではなくなったのか?「戦後」を字義通りに捉えるなら、戦争の終わった後の平和な状態である、ということになり、そのフレームが消えたということはつまり今は戦時中なのだ、ということになる。安易に接続するならば、それは9.11以降ということになるのだが、この解釈は個人的にはしっくり来ない。

「戦後」なる時間の流れをconstativeに捉えるのではなく、perfomativeに見たとき、我々が自分たちの生きる時間を「戦後」と呼びうるフレームというか条件、メンタリティのようなものが変わったのだろう。それは戦時中だとかそういうことではなく、もう少し大きな枠で見たフレームの変化だろう。

個人的には9.11といったような特定のトピックによって戦後が<歴史>となったというわけではない気がする。我々があの時代を<歴史>とみなすことは、単に今の時代の以前に存在した時間であるということだけでなく、何らかの形で語られたものになる―それが<>が付くということ―ということが必要になる。事実の時系列にそった羅列だけではなく、それがどういったものであったのか、現在から見てどのようなものだったのかということを語られ、かつそうした認識が社会全体で共有されることが必要なのだ。

小泉首相以降、政治は戦後的なるものからの脱却を図ろうとしてきた。戦後政治的なスキームで動いてきた社会の構造は、ベタに信じられる「事実」ではなく、<>付きのもの、他に選択肢があったかもしれないナラティブなものであったのだ、という認識が広まった気がする。彼の靖国参拝への姿勢は、それまでの首相が取ってきた姿勢を<歴史>の中へと押しやり、語られる対象とした。「構造改革」のフレーズは、それまでの政治が「改革」されるべきものであり、我々にそれが何であったのかを語らせた。このように戦後的な時間に<>を付け、語るべき対象とする動きがいくつかの場面で同時多発的に起きたような気がする。9.11もその一つであろうが、それが全てではない。グラデーションを描くように、だんだんと我々の生きる時間から戦後的なものが消え、ナラティブなものとなっていった。

ただし<歴史>がナラティブなものであり、社会との間で往復的な再記述を経て形成されるものだ、という認識が人々の間で共有されているかは怪しい。我々は確かに戦後的な時間を<歴史>の中に追いやり、語るべき対象としてきたが、そうした変化に自覚的でありながら意識的にやっているのかというとそうでもないようだ。戦後・戦中の歴史について、未だ「事実性」の奪い合いは起きている。それが歴史の物語性をより確かなものとしているのだが、彼らはどうもベタに事実性を求めているように思われる。

もちろん<歴史>は我々が単に記述するものであるだけでなく、<歴史>もまた我々を記述する。我々が記述した<歴史>は、その記述を通して我々を規定する。我々が何を<歴史>としたのかを見ることによって、我々の現在の社会的なメンタリティを知ることが出来る。

ただ「戦後」なるものが<歴史>の一部となったことはあるにしても、果たしてそれがどのような<歴史>であったのかということについては未だ共有されているものが少ない気がする。ポストモダン的に言えばそれは共有されないまま終わってしまうのかもしれないが。
個人的な興味としては、<歴史>が物語であること、そのナラティブさを共有している人たちと、単なる「事実性」にのみ拠ってベタな見方をする人たちとの間で大きな乖離が起きているように見える。その乖離が現在の社会でいくつかの「問題」として表面化しているように思う。

メタユートピア/ゾーニング/テクノロジー

以下現在書いている原稿用のメモ。

メタユートピアとゾーニング

メタユートピアという言葉がある。ロバート・ノージックによる論が有名であるが、リベラルな社会においては多様な価値が混在しており、人々は同じ価値を認め合うものどうしが自発的な共同体を作り、すみわけを行う。そしてそのことを認める包括的な社会の存在をメタユートピアと呼ぶ。
メタユートピアは、その表象に目を配ればゾーニングと大差なくなる。ゾーニングもまた、社会設計として同じ価値を共有するもの同士の結合とそうでないものの分離を容認する。

「公共性」論

「公共性」論

この本における稲葉のメタユートピア論によれば、両者における決定的な差は、管理人の有無と言えるかもしれない。ユートピアにはいざとなったら社会の全体性―生活世界に対する「システム」―にコミットする「管理人」たちがいる。ところがゾーニングには、どうゾーニングするかを決めるデザイナーはいたとしても、その後の全体性の確保については想定されていない。
稲葉は「公共性」を、生活世界とシステムの間の緊張関係だとしている。個人が自分の認知限界を超えて他者と協調し、不可視なシステムに再帰的にコミットしようとするためのその条件。だとするならば、メタユートピアにはごくわずかながらもそうした公共性を持った人間が存在するが、ゾーニングの思想において公共性を担保するメカニズムは、必ずしも自明ではない。

多様な価値の共存を認めることで、その先どこに行き着くのか。宮台真司はそれを「島宇宙化」と呼び、バラバラの共同体の間に断絶を見出した。一方で東浩紀は(『「公共性」論』における稲葉的解釈を挟めば)公共性の必要性そのものを梯子外しする。彼はシステムへの再帰的なコミットの必要性を疑う。すでにシステムは生活世界を十二分に侵食しており、再帰的ならずとも、「動物」的に生きようとも我々はシステムに「自然に」コミットしているのではないか、と。

宮台は共同体間の断絶を生み出すゾーニングを否定するが、少数のエリートによるシステムへのコミット、それによる社会全体の管理という図式は否定していない。一方で東浩紀ゾーニングをデザイナーが正しいデザインを行えば、という条件付で容認しているとも言える。

メタユートピアか、ゾーニングか。少数者によるシステムへのコミットか、動物によるシステムの回転か。
どちらが良くてどちらが悪いという話をするつもりは、ここではない。ただしどちらにも共通する問題が存在する。

ユートピアの破壊/からの離脱―公共性とテクノロジー

宅間守はユートピアの破壊者であった。小学校というユートピアを、自分の住むユートピアを抜け出し、破壊した。彼の住んでいたユートピアは、少なくとも彼にとっては不全を起こしていた。だが彼はそれをどうにかする手段―ユートピアのシステムへのコミット手段―を持っていなかった。本当に持っていなかったのかどうかはわからなかったが、真っ当な方法で社会に参与することを想定しなかった。代わりに、異なる価値を持つユートピアを、小学校という共同体を破壊する道を選んだ。
彼はユートピアの破壊者であると同時に、ユートピアからの離脱者でもあった。「脱社会的存在」である。この国がメタユートピアなのかゾーニングなのか何なのかはわからないが、宅間守はメタユートピアの管理人による手当てから漏れた者であり、動物として生きるにもまた満足し得ない者であった。

システムへのコミット手段を失い、かつそのことに気づいてしまった者。そうした者はその共同体から抜け出すか、自分の共同体に八つ当たりするか。宅間守はその両方を同時に選択した。だからこそ犯罪史上に名を残す稀有な存在となったのだが、たとえ両方の選択肢を一気にとらずとも、どちらかの方法で、システムへの再帰的なコミット可能性―「公共性」―の喪失を顕す者は多くいる。

こうした人間への手当てを、メタユートピアもゾーニングも、そのままでは解決できない。そこで投入されるもののひとつが、テクノロジーだ。

ただしこの記事のような使い方では、根本的な解決にはもちろんならない。「セキュリティ」は所詮共同体の壁を引き上げて、ユートピアの破壊者の矛先を別の共同体へと変えることしか出来ない。そして共同体内部からそれを破壊しようとするものには対処出来ない。あくまで宅間のように「抜け出し」「破壊する」二つの選択肢を取ったものにしか、効果はない。
必要なのは、「公共性」を喪失した人間への手当てであり、システムへのコミット可能性の提示、ないしは喪失感そのものの消去である。痛みの原因になっている病を治す薬の処方箋を書くのか、痛みそのものを麻酔で消すのか。
この国の社会の流れとしては、麻酔を打つ方向に向かっているように思われる。その一方で、処方箋を求める声も、次第に大きくなっているように見える。少なくともテクノロジーは今のところそのどちらにも大して寄与していないように思われる。痛がっている人間がどこかにいることを、我々に忘れさせようとしているだけだ。

知的情報メールマガジン「αシノドス」読みたい!

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四月から、芹沢一也氏と荻上チキ氏が結託して「αシノドス」というメーリスを立ち上げるらしい。
荻上氏のブログで
「αシノドス」配信開始&トラックバックキャンペーン受付中! - 荻上式BLOG
トラックバックキャンペーンをやっているらしいので、乗ってみた。
総量7万字(削るのかな?)と聞くとかなりボリュームがある気がする。実際どのくらいの感じなのかは分からないが。

彼らが今なぜ思想についてのメーリスを立ち上げようと考えたのか、それはここに書いてある。
Serizawa | Real Estate | Apartment For Rent | Personals | Cheap Airfare at Kazuyaserizawa.com
ここで芹沢氏が

芹沢: 今は「運動」の時代なんですよ。「運動」の時代においては、現場や「運動」の力学が強くなって、どうしても思想や理論は軽くみられがちになる。あるいは従属させられてしまう。

と語っていたのがかなりぐさっときた。自分も最近はどうやったら人が動くのか、という「動員の言葉」に興味があるといろんな場所で発言してきた。そこに通呈するのは、思想や理論を道具的に使って社会を変えるにはどうすれば良いのか、という意識である。

しかし荻上氏がその後語るように

荻上: (中略)しかし、そこで「運動」のために召還された思想的言説がベタに思想として成熟しているかのように捉えてしまうと、ある種のクリシェに陥ってしまったり、ネガティブな帰結を招いたりする可能性がある。

というのもまた真実だろう。

こういった自戒も込めて、「αシノドス」を読ませていただきたいと思う。

「友だち地獄―『空気を読む』世代のサバイバル」

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

2006年度、僕がゼミで御指導いただいた先生の本である。渋谷の紀伊国屋をほっつき歩いていたら見つけたので購入した。*1

授業二つにゼミ一つを取っているので、本の内容自体は割りと聴いていたものと一致するが、ケータイ小説など新しい事例も扱っていて、確認のためにも役に立った。

本書の要旨

「友だち地獄」という煽り気味なタイトル*2の通り、現在の若者の友人関係は希薄化しているのではなく、むしろ友人関係に過剰に没入し、その関係性を維持するのに必死になっている、という内容である。
現在の若者はコミュニケーションを円滑に進めるため、表層的な争いやいざこざを極力回避し、お互いが傷つかないような「優しい関係」を維持している。そしてその「優しい関係」の維持に与しない人間は、「KY」であるとされ、徹底的に嫌悪される。
ではなぜ彼らはそうした「優しい関係」の維持に奔走するのか? 彼らは「純粋なもの」にあこがれる。ひきこもりの人々が使う「純度100%の自分」という言葉に見られるように、自己の中に「純粋でピュアな自分」を求める。それは身体的で、生得的で、本質的な自己への欲求である。しかし自分の身体的で感覚的な欲求に従えば従うほど、他人との違いは際立ってくる。彼らはそうした違いの存在を認め、一方でそれが顕在化しないようにするため、「優しい関係」を維持したがる。高度なコミュニケーション技術である。
彼らが「優しい関係」を維持するのにはもう一つ理由がある。彼らは自分の中に眠る「純粋でピュアな自分」を探しているのだが、それらは自分で探し当てるだけではなく、他人の承認を得ねば見つけたことにはならない。そして身体的、生得的な感覚に基づいて行動する際、人間関係のゆがみによって自分が否定されるようなことがあれば、それは「本当の自分」を否定されることになりかねない。「優しい関係」を維持することは、高度なコミュニケーション技術であると同時に、自己への承認を曲がりなりにも調達する手段でもあるのだ。

こうした主流の論旨の横に、傍流としてケータイ小説や青春小説、ネット自殺などの事例が絡んでくる。様々な事例をスパスパと斬っていく様子は、非常に軽快であり、読むほうも思わずうなづいてしまう。

一方で、若者の行動に対して彼らのメンタリティを分析することで一定の理由を与えているものの、ではなぜ彼らがそのようなメンタリティを持つようになったのか、例えばなぜ彼らは「純粋な自分」を探すようになったのか、という根本的な説明は若干弱い。大澤真幸などの理論を多用してはいるが、それも根源を説明する理論にはなっていない。

「本当の自分」を求めて

「純粋でピュアな本当の自分」がどこかにいるはずだ、という感覚に基づき現代の若者は行動している、という指摘は、速水健朗の「自分探しが止まらない」と共通している。ではなぜ我々は「本当の自分」を探してしまうのか? そして「本当の自分」などというものは現実に存在するのだろうか?
客観的に確認可能な資料で言うのならば、よく挙げられるのが1980年代以降の教育現場における「個性」重視型教育への転換である。ただしそれは経済的な変化に対応するための要請であり、いじめやリストカットを誘発するようなレイヤーにまで踏み込むものではなかったはずである。だとするならば、教育現場のみならずそのほかの領域でもそうした個性への志向を煽られた結果なのだろう。(ここら辺は特に土井先生の前著
「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
に詳しい)
そして問題なのは、個性を煽られることでも自分探しをすることでもなく、煽られた我々が抱く「本当の自分」像と現実の自分に、いかんともしがたいギャップが存在し、そしてそのギャップはいつまでも埋められることがない、ということだ。いつまで経っても見つからない「本当の自分」に振り回されて「優しい関係」の維持に奔走する姿が現実のものだとしたら、その責任は虚構のはずの「本当の自分」をベタに信じ込ませようとした側の人間たちにある。

文化系トークラジオ LIFEの「自分探し」のpart4辺り(2008年3月9日放送「自分探し」part4 (文化系トークラジオ Life))で挙げられていた「自己啓発」などもまた「本当の自分」を探すための手段である。番組中では自己啓発の効果を強調するメールを送ってきていた人もいたが、それは「本当の自分」というにんじんを目の前に垂らされて疾走する馬に過ぎない。もちろんそれで他の馬を追い抜き、レースに勝つ馬もいるだろうが、大抵の馬はにんじんが手に入らぬことに疲れてしまい、走るのをやめるだろう。そこでなお「走れ」というのは、はてな界隈の言葉を使えば「マッチョたれ」ということに他ならない。企業戦士が鞭を打たれて虚構のにんじんを追い求めるのはまだしも、果たしてそれは学生に対しても当てはまる言葉なのだろうか?

もし本当に我々が「本当の自分」などというものを持っているとしたら、それは極めて生得的なものであり、「探す」などということをしなくても勝手に出てくるはずである。にもかかわらずそれを探し続けねばならないということは、やはりそれは虚構であり、虚構であるということを認識した上で上手く取り扱うのがよりよい選択肢だと思う。ただそうしたアイロニカルな姿勢を実際の教育現場に持ち込むことは難しい。難しいが、しかし本書の内容が事実ならば、それを乗り越えなければ問題は今後もより拡大するだけになるだろう。

*1:ところでうちの大学の一番大きな書籍部にはなぜかこの本置いてなかったんだけど。どうなってんの?

*2:土井先生にしちゃ煽るなぁと思ったら本人が付けたのではないらしい

「表現の自由」というタームは耐用年数を過ぎた気がする。

しばらくじっくりPCに向き合う時間が無かったので、今更児童ポルノ関連の議論を見返してみた。*1

その中で気になったのが、何箇所かブログ上で散見した「欲望は裁けない」という命題である。確かにある種の性的な欲望を持ったことが外部に発覚したとして、欲望そのものを罪にすることは出来ない。少なくとも現行の制度では。
しかしこの命題が自明であるからといって、欲望の「管理」もまた不可能であるとは思えない。欲望そのものを罪にすることはできなくとも、もう一段階クッションを置いた形で、人間の性的な欲望を管理しようという試みは、既に幾度も歴史の中で繰り返されてきた。欲望の対象物を保護したり、欲望の発露を制限したりというかたちで国家は欲望に規律訓練を施してきた。欲望は、その外堀を次々に埋められた結果、「規範」という縄によってきつく縛られている。こうした歴史を踏まえるならば、「欲望は裁けない」という命題に乗っかり泰然としている間にも、しっかりと規律訓練は進むだろう。

こうした「欲望の管理」は、当然ながら人間の「自由」とトレードオフな関係にある。女子高生の身体を金で買って欲望を満たす「自由」はない。では女子高生に「見える」性的な画像を所持する自由は? 「管理」とは、こうした曖昧な部分に強引に境界線を引き、善と悪の選別を行う作業でもある。
当然こうした動きに対しては、ほぼ毎回「表現の自由」というタームが付いて回る。過去のわいせつ物に関する議論の中でも幾度も登場してきた。ところが、もはやこの国において「表現の自由」というタームはもはや耐用年数を過ぎてしまった感がある。この国で人々があらゆる利害を通り越して団結できる唯一の関心事は、「セキュリティ」であり、このタームの前には今や全ての論理が硬直する時代となった。*2そして我々が現在享受する「自由」もまた、この「セキュリティ」の論理の中で認められたものだけになっている。そのような中で、「表現の自由」というタームは、セキュリティのロジックの前にはおそらく通用しないだろう。もちろん表現の自由が守られることは大事だが、それの持つ論理的な強さ、つまり人間を動員するための「政治の言葉」としてはもはや力を失っているように思われる。

もし性的な欲望の管理に対抗する手段が必要だとするならば*3、我々は「表現の自由」というタームに代わる言葉を探す必要がある。それが何なのか、ということを僕はここではっきりと提示する能力は持たないが、まずこうした意識を出発点にしないといけないのではないか。

*1:細かくいうと主に問題になっているのは児童ポルノの単純所持の禁止と準児童ポルノという概念についてのようだが、ここではすこし問題意識を広げて議論する。

*2:身体の保護という私的なレイヤーの問題が、公的なレイヤーの問題に立ち上ってくるというのは決して新しい話ではない。だが少なくとも今までは私的なセキュリティの問題は「前提」とされており、社会がセキュリティを公的レベルの問題として語るということは、それを「前提」だと認識しなくなったということだ。それがはっきりと目に見える形になったのが911である。

*3:そもそもこの条件を満たすのが難しいかもしれないけれど。

小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと「ある意味で」思うよ。

承前
白痴日記
小学生はガンガン犯行予告とかすればいいと「本気で」思うよ - logical cypher scape

「犯行予告」という行為*1について、id:Muichkineは「均衡」という概念を使って、意識やコストの面から「特に問題ないんじゃない?むしろ犯行予告ガンガンやっても、今ある均衡が別の均衡に移るだけじゃない?」と述べている。

ただし初めに見てきたように犯行予告には悪意も情報もない。
悪意も情報もないのに捕まるとか意味わからん。いや、実はわかるけど。
単にそれが規範、別の言葉で言えばナッシュ均衡になってるだけでしょ。

これは唯一の均衡ではなく、揺さぶれは動く均衡だ、みんながみんな一斉に犯行予告をし始めれば、これはもう対処のしようがないわけだから別の均衡点に移るしかなくなる。その均衡点とは統治者は何も対処しない、被統治者は犯行予告しまくるという均衡だ。


白痴日記

そしてid:sakstyleもまた、「自由」の面からこの理論に賛意を示している。

今回の小学生による犯行予告にいたっては、どうもニコニコ動画のコメント欄でなされたらしいのだけど、それが取り締まられたというわけだ。

このような取り締まりは、はっきりいって馬鹿馬鹿しい。

正直、ネットで犯行予告する奴は単なる馬鹿だと思うのだけど、そんな馬鹿をわざわざ捕まえてくるのは、それに輪をかけて馬鹿馬鹿しいことだと思うのだ。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080309/1205033523

両者共にインターネットにおける自由が損なわれる、という危惧が根底にあるようだ。僕もそうした意識はないわけではないが、おそらくこの件とはあまり関わりが無いと思っている。そして両者の考え方には若干の違和感を覚える。

まず犯行予告に悪意があるのかないのかという話だが、これは確かに「犯行予告」の文面からは判断できない。ただし、インターネットという不特定多数が閲覧可能な空間において、学校やその他の人間の業務に障害をもたらす可能性のある言説であることには違いないと思う。id:Muichkineは、犯行予告を「匿名の無意味な情報」としているが、それは実際に犯行が起きなかったことが確認されたときにだけ事後的に把握できる話であって、予告が行われた時点では悪意があるのか有意味な情報なのかの区別は付かない。そして万が一その犯行予告に則って実際に犯行が行われたとき、それは事後的に「有意味であった」とされ、例えば学校側の責任や予告が行われたサービスの管理人が責任を問われることにはなる。*2
つまり行為としては十分周囲の人間の業務を妨害する可能性は発生する。そして悪意=犯意の有無だが、確かに犯行予告が行われた時点では分からない。が、行為のレベルでは法に触れると思われるので、少なくとも威力業務妨害罪で「逮捕」されるのは妥当だと思う。実際に罪に問われるかどうかはその後犯意についての取調べが必要となる。

また「自由」という観点から見ても「犯行予告」は退けられるべきものだと思う。我々は確かに自由を最大限尊重する必要がある。しかし、というかだからこそ、自由を侵害する自由は認められない。「犯行予告」は上記の通り不特定多数の目に晒されることで、一部の人間の自由を侵害する可能性がある。

ただ以上で述べたことは全て原則論であり、元のエントリも思考実験に近いものだと思われるので、あまり原則論の主張をグダグダと繰り返しても面白くない。ので僕も一つインターネットと自由という観点から書かせていただく。

このエントリのタイトルに「ある意味で」と付いているが、どういう意味で犯行予告の量産に賛成なのかと言うと、ガンガン馬鹿なやつがネットで犯行予告なんぞしてくれれば、ガンガンそうした馬鹿な奴は警察にしょっ引かれて、結果としてネットから馬鹿なやつが減る、しかもそれは犯行予告という実質的には「無意味な」行為が排除されるものであり、全体に対する影響は無いに等しい。全体にはそれがあろうがなかろうが大きな影響を持たない行為によって、馬鹿なユーザーが消えるのである。素晴らしい。

インターネットは、フィルタリング等、環境をいじることで事前の規制が行いやすい場である。僕は犯行予告を取り締まるといった事後的な規制よりも、フィルタリングなどの事前的な規制の方がより危険であると考えている。ただあらゆる行為を認める無法地帯にするわけにもいかない。そこでせめて事後的な規制は徹底した上で、事前の規制をなるべくゼロに近づけるという方向性を望んでいる。もちろん事前の規制が規律訓練化するという話はあるのだが。

*1:小学生によるインターネット上の犯行予告が相次いだことを受けた記事と思われる。http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/06/news006.html

*2:一応エントリ先ではゲーム論的な発想を用いることで責任の回避が説明できるとされているが、そのような発想を法は想定しておらず、ゆえにそうした発想を他人に強制することは出来ない。