絶倫ファクトリー

生産性が高い

「コンビニの建築×社会学」を聞いてきた。

MUSEUM OF TRAVEL
このイベントに参加してきた。

コンビニの建築×社会学
<ゲスト>
藤村龍至(建築家)
吉村英孝(建築家)
新雅史(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)
田中大介(筑波大学大学院人文社会科学研究科博士特別研究員)
<モデレーター>
南後由和東京大学大学院学際情報学府博士課程/日本学術振興会特別研究員)

■都市空間の風景や日常生活に溶け込み、独特の場所性を獲得しているコンビニ。コンビニは、消費空間の構成、流通・情報ネットワークの空間化、労働環境などの点において、興味深い建築的かつ社会学的なテーマとなっている。
■今回はコンビニをめぐって、若手建築家2名と社会学者2名が各々の問題関心をぶつけ合い、議論する。

リンク先のブログを見ていただければ分かるが、Museum of Travelというグループが「CAMP」というシリーズで延べ30日間、トークイベントを中心に様々な企画を八丁堀の「Otto Mainzheim Gallery」で開催している。3月1日は以前勉強会で話を伺ったことのある社会学のお二方と、若手の建築の方が「コンビニ」について語るというイベントだったので、就活帰りに寄ってきた。

個別の内容―データベース/ガラス/スキマ/レキシ

流れとしては、藤村氏⇒吉村氏⇒田中氏⇒新氏の順で発表していく。1人の発表につき、建築学の人が発表したら社会学の人間がコメントを付け、社会学の人が発表したら建築学の人間がそれぞれコメントをするという方式になっていた。4人が発表を終えると、全体でのトーク及びギャラリーとの質疑応答に移った。

それぞれの発表を羅列すると冗長になるので、興味を惹かれた点、気になった点を小さくまとめてみる。

◇ 藤村氏:家電量販店やスーパーの空間を、物品が置いてある下の空間と商品カテゴリや値段を天井から吊るして表示している上の空間に分断し、前者を「遭遇的空間―encount space」、後者を「検索的空間―seaching space」と名づけた。両者は床から150cmのいわゆる「アイレベル」で分けられており、遭遇的空間にある商品を検索的空間で二次元情報によって「データベース化」している、という。
非常に興味深かったというか、データベースの文字を見た時点で東浩紀を想起したのだが、会場で配られたフリーペーパーにある藤村氏の文章を読むとかなりそこら辺を意識しているのが伺えた。

◇ 吉村氏:吉村氏が最初に手がけた薬局の建築に関する事例を挙げ、設計に際しコストの抑制や融資を受ける銀行からの要請などいくつもクリアするべき条件がある中で、いかに建築家が自分の裁量を確保できるのか、という話がメインだった。建築と言ってもかなり建築そのものによる制約以外に様々な条件で拘束されるということがよく分かった。ガラスをファサードに綺麗に使ったデザインも面白かった。
個人的には吉村氏の発表に際し田中氏が述べたコメント「コンビニはコンビニらしさを徹底していない」という言葉が印象に残っていて、「コンビニの壁を全部ガラス張りに!」という提案をなさっていたのだが、個人的には近所のセブンイレブンの壁が全部ガラスになったら多分行かない気がする。パノプティコンとは言わないけれど、周囲の視線をかなり気にしてしまいそうだからだ。コンビニは確かに今でも道路に面した側(ファサード)はガラス張りだが、あれは雑誌を立ち読みすることでガラス付近の人間は外と視線を合わさないでいれるのであって、全面ガラスになると気になる人もいるのではないかな、と思った。

◆ 田中氏:社会学のお二方は以前もっと長時間に渡りお話を伺ったことがあったり文献を拝見したことあるので、非常にかいつまんでいくつか。「スキマとしてのコンビニ」ということで、全国どこにでもあるコンビニが、ついふらっと立ち寄ってしまう、入るのと何故か安心してしまう「スキマ」であり、歴史的経緯から見て非常に「日本的」であるということを指摘していた。またセキュリティ意識の変化と共に防犯的な役割も同時に課されていく傾向にあることも述べていた。
ここで藤村氏がコメントで「聞けば聞くほどやっぱりコンビニに建築家はいらないんじゃないか、と思えてきてしまう」という「警戒心」を表明したのが面白かった。以後藤村氏は「コンビニに建築家ってほんとにいるの?」と言う問いを投げかけていく。

◆ 新氏:コンビニが日本で広まったのは、大店法による規制を潜り抜け、かつ規制緩和されていなかった酒類の販売も行える点に眼をつけ、個人経営の酒屋などに積極的に売り込んでいった結果だという歴史的経緯、そしてPOSシステムとそこで働く人間の関係について述べていた。最近はなかなかコンビニも人手が集まらず、
人間関係をいわば「しがらませて」維持しているような事態であり、高齢者と外国人労働者の比率が高まっていたり、店舗数もオーバーストアで、新規出店は大学や再開発されたビルの中など初めから人の入りが見込める場所が増えているという話であった。

全体の議論―文系と理系を架橋するもの

全体的な構図としては、建築学側は藤村:理論/吉村:実践、社会学側が田中:消費者、新:労働者、という図式になっていた。

全体トークでは、いくつかの論点が出たのだが、個人的には藤村氏が問い続けた「コンビニに建築家って必要なの?」という論点が面白かった。司会の方は、社会学と建築学を「コンビニ」という側面で架橋する視点として「インフラとしてのコンビニ」という方向性で行きたかったようで、社会学の方からは流通的な観点からバックヤードの設計に建築の入る余地があるとか、セキュリティの観点から、といった声が上がっていた。また吉村氏はコンビニの地理的な特性による絶対的な固有性ではなく、全体との差異によって構築される相対的な固有性を確保したいという観点から、コンビニに建築が入る余地があるのでないかと述べていた。ただそれでもどうも藤村氏はあまり納得してはいないようだった。

僕は藤村氏がどういうスタンスで建築家としてコンビニなるものに立ち向かいたいのかが分からなかったので、質疑応答のときに聞いてみた。内容としては、「藤村氏の言う『コンビニに建築学の人間が関わる』というのは、例えば他店舗との差異化を図る必要があるとか、銀行によって棚の数から何まで全部抑えられているとか、そういったいわば『文系的なオーダー』が先にあって、それに理系が応える形で関わることなのか。もしそうだとしたら確かにそれは他店と違うガジェットを置いたり、銀行の言うことには素直に従うしかなかったりで解決してしまうもので、建築がストレートに関わることは難しいかもしれない。そうではなく、先に建築の方から『理系的なオーダー』を出して、それに文系的な要素が応えるという形でならば、関わることが出来るしもし出来たとしたらそれはすごいことなんじゃないか」というもの。

それに対する藤村氏の回答は、「『文系的』『理系的』という言葉を使うなら、今まではちょっと文系的なオーダーが先に来ていて、自分としてはどっちが先というよりも、両者が同じテーブルにすわり、対等に話をして話が進んでいくような形を望んでいて、そうしたロールモデルを作ろうという野心みたいのがある。今日参加したのも、そういう方向性を考えたから」というものだった。確かに藤村氏の発表もかなり情報社会学的な用語や思考が垣間見られた。

ちなみにここで建築学側の人間でも藤村氏と吉村氏の間でスタンスの違いが見られた。文系的なものと理系的なものを分けて考えたうえで、その両者を合わせていきたいとする藤村氏に対し、吉村氏はそうしたものを分けずに考えていきたいというものだった。実際の建築においてそれがどういうアウトプットの差となるのかは、建築に全く疎い僕には察知することができなかったのだが、同じ研究室にいて同じ場で議論している間柄でもそうしたスタンスの差があり興味深かった。*1

個人的な感想―システムの中の生活空間

個人的には、「コンビニに来ると何故かほっとする」的なイメージをどうにか生かして、社会学と建築学を架橋することは出来ないのかと思っている。テンプレートなことを言えば、コンビニといったら「生活空間/システム」の文脈においてシステムの権化のような扱い方をされている。
藤村氏は量販店の天井から吊るされている物品のカテゴリ表示を「データベース」と呼んだが、コンビニはこうしたデータベースは明示的でない。何がどこにあるのかは、入ってみないと分からない。だがコンビニの利用者は大体何がどこら辺にあるのか分かっている。同じような構造をしているコンビニに幾度も入ることで、データベースを内面化しているからだ。
「生活空間」を、従来の定義から離れ、「履歴の参照可能な空間」、「システム」を「履歴の参照不可能な空間」とすると、コンビニは自分の過去の履歴=データベースを参照し、それと現前の空間が一致することで「入ると何故か安心する」ことの出来る場所であるといえる。形容矛盾的だが、「システムの中の生活空間」とでも言えるような場所になりつつある。こうした要素を、建築の力によってより広範囲の人間に、より簡易にもたらすことが出来れば、それはかなりインパクトのある仕事ではないかな、と思った。

*1:他にも吉村氏がコンビニのガラスを増やせと言った後に藤村氏がガラス減らせと言う場面があった

19歳のニートの女の子の美談についての補足。

先日のエントリの真実性の箇所について、id:ono_matopeさんからTBを頂いたのと、ブックマークコメントでも分かりづらいという指摘を頂いたので少し補足させていただく。

2008-02-27 - 小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

水からの伝言」は、「水からの伝言」という物語の外部に、「科学」という我々が客観的に観察可能な、検証可能性を持っていた。そしてその検証可能性に基づき非難された。
一方19歳のニートの女の子の美談は、本エントリの文章以外には、我々が客観的に観察可能な検証可能性を持っていない。本エントリの著者が事実であるかのような書き方をしているという以外には、検証可能性が無いのである。
物語の帰結としての著者の「主張」と、その物語が真実であることが対応せねばならないとき、我々は日本昔話やグリム童話にも同じことを求めねばならない。嘘を付くことは信頼を損ねることになる、という主張の根拠となるオオカミ少年の物語は本当だったのか? それを検証する手立ては、もちろん無い。それと同じように、我々はあの女の子の美談を検証する手立ては、無い。

個人的にはono_matopeさんの指摘するように話の整合性は怪しく、創作の可能性があると思う。ただそれが創作であったにせよ、本エントリの中で自己完結しており、それ以外に我々が何か検証する余地はない。
あの美談は本エントリの「リアルの書店にはネットにはない素晴らしさが」ある、という主張の「根拠」と呼べるものではない。オオカミ少年の話が信頼の大切さの「根拠」などというたいそうなものにはならないように。

事実か創作か、リアルかネットか

ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話*ホームページを作る人のネタ帳

この話が本当なのかどうかを気にするのは、「恋空」が実話に基づくのかどうかを気にする人たちとメンタリティが似ている気がする。「水からの伝言」などの似非科学を用いた論法と同一視する人も居るけれど、それも若干違うと思う。似非科学の非難されるべき点は、科学という既に体系だった正統性を隠れ蓑のように装うことで自論の根拠としたことであり、「水からの伝言」という物語の正統性を、「科学」という物語の「外」に求め、かつその「外」との整合性を持っていない点で非難されるのである。
一方でこの19歳のニートの女の子の話は何か既存の正統性を装うことはしていない。この「物語」の正統性は、この物語の中にしか見出せず、物語の「外」に根拠を求めているわけではない。「この話は実話に基づいています」という著者の一言しか事実性を担保していないケータイ小説と同じレベルである。もし女の子自身のエッセイやインタビューなどが単独で他に存在し、それを捻じ曲げて解釈したものに基づいて書かれたのがこの話であれば、それは「水伝」と同じ理由で非難されるべきであろう。本人が事実ですと言う他に事実であることの根拠が述べられていない以上、それは事実でないとはいえないし、事実であるともいえない。「事実かどうか」を問題化することは出来ない。その分、もちろん説得力も保証されないけれど。

ちなみに事実性云々ではなく話の中身について言えば、この話のキモと思われる部分

ネットには、多くの人間が書評などを行っています。
誰かが言ったから買う、とか、Amazonで人気だから買う、とか。

そういう集合知によって発生する付加価値が、ネットにはほぼ必ず付いてきます。
Googleから検索するという、たったそれだけの行為でも、検索順位と言う付加価値が付いて回ります。

逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。

本屋の面白さはここにあると私は思っています。

には疑問符が付くと思う。ネット上で本を買おうとすると、それに関する情報が大量に付随して頭の中に入ってきてしまうというのは確かにその通りで、リアルの書店ではそれが遮断できるというのも確かにその通りだと思う。けれどではリアルの書店では全ての判断材料が自前なのかというと当然そうではなく、彼女がそれ以前に触れた情報、人間、価値観に左右されることはある。その意味では全ての本がフラットであるというのは不可能な話で、本当に扱いをフラットにしたかったら買う本をクジで決めれば良い。偶然性に任せなければ、どうやったって外部情報を遮断するのは難しい。書店におけるリアルかネットかは、購入に関わる外部情報の過多程度しか違いはないのではないか。*1

個人的にはリアルの書店と比較する対象をamazonやセブンアンドワイといった実際の具体的なサービスとするのはどうなのかなと思っている。リアルの書店でも、欲しい本を検索機で探してレジに持っていって会計を済ませるだけなら、amazonで買うのと本質的には変わらない。僕はリアルの書店は何か欲しい本があるというより、面白そうな本なんかないかな、と無目的にふらふらと立ち寄って適当に立ち読みしたり眺めたりしたいときに利用している。そういう意味で、リアルの書店と対応しているのはamazonではなく、自分が読んでいるブログの世界、大きく言ってしまえばネットの世界全体だと思っている。人のブログをあっちこっち読み漁っていると、毎日大概何かしらの本について述べたエントリに出会うので、RSSリーダーで購読フィードを読むことは本屋を無目的にフラフラ歩くのに近い感覚がある。そしてある本についての書評エントリを読むことは、書き手の目を通してその本を立ち読みすることに似ている。
この比較軸で言うと、リアルの書店とネットの「書店」の違いは、自分の目を通して立ち読みするか人の目を通して立ち読みするのかになる。どちらが良いかは人それぞれだろうけれど、というか理想なのは両方使いこなして自分に合った本を探すのがベストなんだろうけれど。

◇◆◇補足⇒http://d.hatena.ne.jp/klov/20080227/1204072737

*1:もちろんこれ以外にもウェブの書店とリアルの書店の違いはあるけれど、ここで焦点となっている「リアルの書店は平等」という主張に関わる範囲に限った場合の話である。

「ゆるふわ愛されポストモダン」

現代思想的なポストモダニズムで、男を誘惑する10の方法を大特集」
1.授業の席で、構造主義に乗せた手をそのままゆっくりとリオタールの「ポストモダンの条件」のほうに持っていっちゃえ!

2.無知のヴェールを口にくわえてさりげなく頭から落としちゃえ!男の子が「原初状態!」って言ったら、強引に首元に思考実験しちゃおう!!

3.男の子と二人っきりになったら、「○○くんって権力を内面化してるよね」って言って視線をかぷっと食べてしまおう。「パノプティコン!」っとなって、男の子は自然と規律訓練型権力な気分になっちゃう

4.男の子にフェミニズムの読ませすぎは注意!あそこが、ふにゃふにゃになってしまうから。程よい量だったら問題なし。むしろ、手の届かないような保守主義者から抱かれてしまうかも(笑)

5.彼氏が中々積極的になってくれない貴方は、動物化するポストモダンにチャレンジにしてみよう。部屋の中で二人っきりのときに、すっと立ち上がってデータベースをゆっくりめくりあげれば、彼氏はその瞬間に獣に(照)

6.告白は少しだけ浅田彰っぽくシラけてみよう!例えば、メールの最後に「今日は○○くんのために『構造と力』をつけてノってます」とか。これで男の子は貴方のスキゾ・キッズにドキドキ!

7.ポスト工業化社会で二人っきりになったらさり気なく男の子のシミュラークルにタッチしよう。そのときに、「消費社会だからごめん」って照れた顔すれば、バッチグー!

8.雨の日は、わざと理論を持たずに数学用語で出ちゃえ!そして、ナッシングセオリーで「ソーシャル・テキスト」が透けちゃえば、勝ったも同然!男の子は一年中ソーカルにドキドキしまくり!

9.ここまで、さり気なくやってもその気にならない男には、真っ正面からぶつかるかしかない!夜の「論壇」で振り向きざまに「○○、脱構築しよ!」 これで男は撃沈!

10.1〜9をやってもその気にならない男は、ノンポリネトウヨ、アカの可能性があります。注意しましょう。可能ならばラカンに精神分析してもらいましょう。

元ネタはこちら⇒ ちょwwwwwスイーツ(笑)雑誌の特集に吹いた:ハムスター速報 跡地
かっとなってやった。後悔はしていない。

追記(改変):2/18 23:20 10番目の文末を変更しました。

「アイデンティティ」という魔窟

行為と意識を結びつける難しさ

ゼミ論や卒論用に本を読んだり文を書いていてよく思うのは、「アイデンティティ」というのはかなりパンドラの箱に近い言葉だ。これほど現代の社会を表すのに多用され、かつその意味が統一的でない用語もない。もちろんそれなりに学者による定義はあるが、人によってかなり異なる。

先月22日に東工大で行われたシンポジウムに関し、東浩紀は事前のブログでのエントリでも当日の発言でも、「アイデンティティとかの話はしないでいいよ」という趣旨を述べていたが、そう言わせるほど「アイデンティティ」という言葉の持つ磁力はコントロールしがたいものがある。

アイデンティティとは何かをここで議論しているとおそらく本一冊が書けるし既に無数の書籍がそのために出版されているので、その話はしない。ただ自分が所属している都市社会学のゼミでは、よく個人があるコミュニティに所属する際の意識として、アイデンティティという言葉がよく出てくる。
ただコミュニティとアイデンティティの関係性に絞っても、その用語の扱いの難しさは付いて回る。まず個人がそのコミュニティに所属していることでアイデンティティなるものを感じているという話があるとして、それをどうやって観察するのかという観察可能性の話が持ち上がる。個人がどれほど深くそのコミュニティにコミットメントしているのか、その深度を計る事で観察できそうな気もするが、コミットメントとアイデンティティは必ずしも相関関係ないしは因果関係にあるとは言えない。コミットメントは個人⇒コミュニティというベクトルだが、アイデンティティはコミュニティ⇒個人、つまりコミュニティから個人が受け取るものであるからだ。コミットメントという「行為」からだけでは、アイデンティティという「意識」のレベルにまで踏み込んで分析することは、難しい。

「政治」とアイデンティティ

先程の東の話、富の再配分の話に無理やりひきつけると、個人的には富の再配分としての政治にアイデンティティの問題は確かに絡めなくても良いと思う。市場的装置が解決してくれるかどうかは別として、「行為」のレベルから判断できない「意識」の問題を政治に持ち込むのは、それこそパンドラの箱を盛大にぶちまけることに他ならない。

ただしそれとは全く別の次元で、アイデンティティの問題は解決する必要があるとも思っている。NHKの「ワーキングプアⅢ」に出てきた青年は、ゴミ漁りで生計を立てていた状態から道路の掃除の仕事に就いたあとも、完全に「社会復帰」したとは感じていなかった。それは端的に家がないというのもあるだろうが、「社会人として認められた」という意識が持てないからと語っていた。再分配の話は時にこうして承認欲求としてのアイデンティティの問題と絡んでいるのでややこしい。この場合はコミュニティへの所属の話ではないけれど、それでも彼に必要なのは生活のためのお金と、承認欲求を満たすことなのだろう。

そうしたとき、彼が何を持ってして「承認欲求が満たされた」と判断するのか。もし真面目に政治がアイデンティティの問題に手を出すならば、それをあるコミュニティへのコミットメントといった行為のレベルから判断するのは難しいと書いた。ギデンズなんかを持ってくれば、「日々のルーティーン」が回復することで満たされるのだろうけど、あれはルーティーンから落ちた人間が再びアイデンティティを確保するのが困難という側面を持つ。何らかの形で意識を定量的に観察出来る手段が必要になるのだが、今のところそういうのが思いつかない。

いずれにせよ、今のところ僕自身は「アイデンティティ」という言葉を使うのは割と慎重になっているし、また同時に向き合う必要がある言葉だとも思っている。

「何故男女は話が〜」について

一年半も前のエントリがどうも急にブクマされているらしく、若干戸惑っているのですが、*1あのエントリは二年次に受けた「社会言語学」の授業で書いたペーパーを改変したものなので、まぁその程度のものだと思って軽く読んでいただけると幸いです。男女における発話のコードの差は、使う言語や国によっても異なるので、真面目にやりだすとかなり面白い分野ではあると思います。入門書としては

社会言語学への招待―社会・文化・コミュニケーション

社会言語学への招待―社会・文化・コミュニケーション


を授業で使いましたが分かりやすかったのでお勧めです。

あと匿名ではてなポイントを下さった方、ありがとうございます。記念に大事に取ってお…いても意味が無いので、どこかで良い記事を見つけたらポイント寄付して使っちゃうかもしれません。

*1:ニコニコで「男女」の歌が流行ってたのが原因なの?

「タテマエ」というコミュニケーションコード

いわゆる「タテマエ」ってのは、立場の違う人間がとりあえず定められたコミュニケーションコードに乗っかることで、トータルのコミュニケーションコストを縮減するためのものだと思う。そしてそうまでしてコストを下げて、摩擦をなくし、コミュニケーションを図ろうとするからには、それなりにコミュニケーションの結果としてのベネフィットが想定されているはず。双方(かどうかは分からないけど)が違う立場に居ながら同じベネフィットを求めるとき、障害となる作法や形式の違いを乗り越えるために、統一的なコミュニケーションコードに則る。これが「タテマエ」であり、最終的に目指すベネフィットが「ホンネ」であると思う。

逆に言えば、コミュニケーションコストを下げていない「タテマエ」は、存在する意味が無い。何のためにわざわざ統一的なコードに則ってやり取りしてるのか。「ホンネ」と「タテマエ」があるのは良いんだけど、何故それが必要でどういう意味があるのか考えないと、手段しかないはずの「タテマエ」が目的化し、いつの間にか「タテマエ」を守ったほうがコミュニケーションコストが上がるようなことがあってしまっては、本末転倒だと思う。

ホンネとタテマエがあるのは別に日本だけでなく多かれ少なかれどこの国もそうなんだろうけど、無駄な「タテマエ」=遵守を目的化したコードが多くあるのもまた事実だとおもう。

「タテマエ」が共通のベネフィットを目指すものである以上、仮に想定されたベネフィットを共有したくない人間は、さっさとその「タテマエ」から降りていいはずだし、降りるべきだと思う。双方に無駄な負担を増やすだけだ。

いわゆる「道徳」とか「コモンセンス」とか言われている、人々の共通認識も、コミュニケーションコードとしてみればこうした考えが適用されてもいいはず。道徳だから常識だから皆知ってなきゃならない、じゃなくて、このベネフィットを共有したい人はこの道徳を、あちらのベネフィットを共有したい方はあちらの常識を、といった感じで細分化されて良い。

というか実際のレベルではそんな細分化はとっくに起こっているんだろうけど、まだ一部でそれを認めない、認めたがらない人が居る。伝統も常識もその共有が人々の利益になったから続いたのであって、そうでない社会が広がる以上、通用しないコードを元に戻そうとしたって無意味。もし似たことをしたいのならば、より広範囲に、最大公約数的に人々が乗っかれるベネフィットを探し、そのためのコードを作る必要がある。

よく分からないけれど、いわゆる「ソーシャルデザイン」が上手い人は、このベネフィットとそこに繋がるコードの生成が上手い人だと思う。*1

「タテマエ」「常識」「コモンセンス」。その先にあるベネフィットを共有しない人にはそれらから降りる自由があるべき。文句がある人は、オルタナティブなコードを作ればいい。自分たちが何を志向し何に乗っかっているのか自覚的でない人間は、他人に非合理的なコミュニケーションコードを強制する権利はないと思う。

*1:ちなみに脱線すると、東工大シンポで中島さんの言ってた「方法としてのナショナリズム」は、トータルで見るとかかるコストがかなり増幅されそうなので、新しいコミュニケーションコードとしては不適切じゃないかと思う。少なくとも現時点では。