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公共圏か動物か―思想地図における白田―東の議論を巡って

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

思想地図を読み進めている。東浩紀北田暁大、萱野稔人の鼎談と白田秀彰による論文を読んだのだが、白田と、彼に執筆を依頼した東との間で見識の一致している面もあり、また一見逆に思われる点もあったりしたので非常に面白かった。

簡単に彼らの議論をまとめると、私的領域という歯車と公的領域という歯車があったとき、それらを回すには間に何かのギアがあった方がいいと言うのが白田で、ギアを噛ませず二つがバラバラに、暴走しない程度にうまいこと回り続けるシステムをつくろうよ、というのが東である。以下、両者のそうした違いについて細かく見ていく。

両者の共通点と相違点―断念された主体と公共性

白田は論文「共和制は可能か」の中で、現在の日本を古典的寡頭共和制であるとし、近代的民主共和制への移行可能性を論じている。日本は国家の運営を担う層とその支配に預かる層の間に断絶があり、これが果たして国民が自覚的に支配機構へコミットする体制へと移れるのか、という問題意識である。
結論から言うと白田はそのようなことは不可能だとしている。彼は民主共和制への条件を二つ提示している。一つは支配機構に関わる公的領域(res publica)が、守護・維持に値するということを事実として国民が受けとめていること、そして第二にそのためには公的領域に対して貢献するのだという信念が存在すること。日本においては、少なくとも日本という国家体制に対しては国民はそのような「物語」を事実としては到底受け止めていないだろうとして、白田は日本の民主共和制への移行を否定している。
自らを「主体」として自覚し、積極的にこの国の公的領域にコミットしていこうという姿勢が日本国民にはもはや無い、という認識に関しては白田と東も一致している。社会を所与の「自然」として捉え、そこへの積極的なコミットを拒否するのはまさに「動物」的ではある。しかしその後の方向性については両者は大きく異なっている。東は岩井克人の国家観を参照し、国を会社としたときにlこれまではその保有者を従業員として見てきたが、これからは会社の持ち主は株主だ、という方向に切り替えていく必要があるとしている。従業員はその会社に所属していることを自覚し、積極的に会社の運営にコミットする必要があるが、株主はそうではない。所属を自覚することも、仲間と協調して公共的な側面にコミットする必要も無い。国家に話を戻せば、ナショナリズムだ討議的公共性だというめんどくさい話は抜きにして、とりあえず損得勘定に基づいたドライな関係で国のあり方にコミットしとけば良いじゃないか、というのが東の見識である。
一方白田はそれとはまた異なる形で公共性の確立を目指す。国家という公的領域へのコミットは皆興味が無いかもしれないが、そこに国家ではない、別のものを代入すれば公的領域の復活は果たせるのではないかとしている。

「……我々現在の日本人が近代国家制度としての日本国に対して、もはや積極的に関与できないとしても、現在の我々の生活の安寧と幸福の源泉に対してならば、我々は積極的に貢献しうるのではないだろうか。」*1

巨大化、複雑化したが故に自分の私的な利益との関係性が不透明になった個人―国家間では、その運営に携わるべく積極的に公的領域にコミットするのは難しい。そうではなく、個人と公的領域の関係性が見通せる規模で公的領域を立ち上げれば、私的利益は公的領域の維持によって担保されているという認識を持つことができるのではないか、ということである。そもそも個人が「主体」として公的領域にコミットすることを断念している東と、規模や環境の調節によってコミット可能な公共性を立ち上げようという白田の間には、大きな差が見られる。ローティアンを標榜する東は、公的問題と私的問題を分けることを求め、個人が私的な欲望と公的領域を接続させることを警戒し、北田・萱野との鼎談の中でこう述べている。

「私的な欲望は自由で、公的な議論はとりあえずそれとは関係ないという区別が、この国ではまだ出来ていない。僕はこれを分けるべきだと思う。それに対して一君万民的な『草の根ナショナリズム』を警戒してしまうのは、それが、ひとりひとりの私的な欲望を変えることによって、つまり公共性を私的に欲する人間を増やすことで公共圏を立ち上げようというプロジェクトに見えるからです」*2

もちろん白田は国家に変わる新しい公共圏の立ち上げに、ナショナリズムを持ち出そうとはしていない。だが、それは表層的な手段において明確な差異が見られない、というだけであり根本的な発想においてはこのような差が見られる。

議論の収束点―静的から動的へ

ただし東の議論を細かく見ていくと、この差異は解消不可能な深い断絶というわけでもないように見える。東が警戒するのは、私的な欲望と公的領域を一足飛びに直結させることだ。そうした接続をしている人々の例として彼は「ぷちナショ」や「赤木智弘」を挙げる。彼らは東からすれば私的な問題をそのまま直接公的領域に持ち込んでいる。
そして白田も恐らくそうした人々を肯定することは無いだろう。白田の議論は、個人が所属する私的領域という歯車と社会のコントロールに関わる公的領域という歯車を結ぶ「ギア」を、何に見出すのかという点にかかっている。国家はもはやギアにはなりえない。何か別のものをギアに入れる必要がある。本論文においてはインターネットにその可能性を見出している。そして彼はギアを使わずに私的領域と公的領域を直に接着させることは、想定していないはずである。二つが接触せず、分断した状態を彼は寡頭制共和制としており、民主的共和制からは程遠い、としている。白田の選択肢は、ギアの無い、私的領域という歯車と公的領域という歯車が別々に回転する状態か、ギアによって二つの歯車がかみ合い回転する状態か、その二つである。
東から見れば、そうした白田の考えはぷちナショ的に私的領域と公的領域をショートサーキットさせる者への想定が足りない、ナイーヴなものに見えるかもしれない。また白田から見れば東の動物化に対する消極的肯定は、ギアも無くまた歯車をショートサーキットさせることもなく両方が上手く回り続け、かつ両方とも暴走しないようなシステムを用意しろということになり、それはそれで虫が良すぎる、現実味に欠ける議論になるだろう。
東も指摘しているが、私的領域と公的領域がかみ合うことなくバラバラに、かつ上手い具合に回転してきたのは実はこれまでの日本であり、白田もそれを寡頭共和制と呼び現在の日本の状況であるとしている。だとすれば、何も時間と金を費やしてこのような議論をする必要は無く、二人とも現状万歳の全肯定でいけばいいのだが、そうもいかないらしい。東も白田も、この国の現状や今後に何らかの問題があり、変える必要があると考えているのだろう。おそらく、現状を支えるシステムがもうもたない、というのが彼らだけでなく多くの人々が共有するイメージなのだろう。

個人的な感想としては、現状に対する認識は静的なものであり、今後の社会をどうするか、何をどう動かせばいいのかと言う話は動的なものである。それらの議論を接着させるには慎重というか厳密な議論の摺り寄せが必要であり、ここに挙げられているような議論だけではもちろん不十分だろう、としか言いようが無い。ただ以前のエントリでも書いたが、必ずしも皆が皆動物になれるわけではないなく、東はそうした人々が私的領域と公的領域をショートサーキットさせる危険性を指摘しているが、そもそもそういう発想にすらならず、私的領域を自ら捨てる、壊す者の存在も指摘しておかねばならない。それは歯車がショートサーキットするのではなく、歯車自体が自壊する可能性を含んでいる、ということだ。もちろん白田のように何らかのギアを用意したところでそうした人間が現れる可能性はあるものの、どちらかといえばギアを用意したほうが上手くいけばそうした自壊可能性は下がる気がする。白田は私的領域の離脱/破壊者をもしかしたら救える射程を持つのに対し、東の理論はそうした射程をそもそももたないからだ。*3

*1:p.390

*2:p.270

*3:ただし白田の想定とは逆に、インターネットは今のところ最も手軽に私的領域と公的領域をショートサーキットさせるツールになっている気はする。

「春の文学フリマ2008」に参加します

文学フリマ - 文学フリマ公式サイト-お知らせ

「春の文学フリマ2008」開催決定!
開催日時 2008年5月11日(日)
開場 11:00〜終了16:00
場所 東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室
(JR線・東京メトロ日比谷線 秋葉原駅徒歩1分、都営地下鉄新宿線 岩本町駅徒歩5分)
※入場無料、カタログ無料配布、立ち読みコーナーあり

logical cypher spaceのシノハラユウキが主宰する批評系サークル「筑波批評社」に加えてもらっています。今回の文学フリマでは、批評系同人誌「筑波批評2008春号」を販売します。

ブース番号:B-56(会場地図
サークル名:筑波批評社公式サイト

GW中、しばらく我が家にプリンタとPCを集めてみんなでシコシコ編集作業をしていました。僕は大体寝オチしてましたが。
その甲斐あって先日ほぼ編集作業を終えることが出来ました。
これがその目次になります

特集はR・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を読んでの座談会です。計六時間、単純に文字起こしして6万時にも及ぶ大長編をどうにかこうにか同人誌の体に収まるくらいに仕上げてあります。ローティの思想を改めて問う形になっており、非常に中身が濃いものとなっております。是非ご一読を!

ちなみに僕個人は「アイロニカルな共同体―その成立条件」という論評を書かせてもらいました。ローティ的なアイロニーの行く末に果たしてどのような社会が待っているのか、という射程を示そうと意図です。もちろんそこまで大きなことは言えないのですが……。

他にも文学評論からマッチョ・ウィンプ論まで幅広くかつ深い評論が盛りだくさんです。かなりボリュームのあるものとなっているので、是非皆様足を運んでいただければと思います。

「戦後」の<歴史>化

先日ゼミで先生に言われて気づいたのだが、そういえば「戦後」という言葉を最近とんと見なくなった。中曽根首相が「戦後政治の総決算」という言葉を使って以降も、メディアでは自分たちの現在生きている時間を指して「戦後」と呼ぶことはあった気がする。

メタヒストリーという立場に立つと、これは「戦後」なる時間が過去のものになったということを意味する。ではいつから「戦後」ではなくなったのか?「戦後」を字義通りに捉えるなら、戦争の終わった後の平和な状態である、ということになり、そのフレームが消えたということはつまり今は戦時中なのだ、ということになる。安易に接続するならば、それは9.11以降ということになるのだが、この解釈は個人的にはしっくり来ない。

「戦後」なる時間の流れをconstativeに捉えるのではなく、perfomativeに見たとき、我々が自分たちの生きる時間を「戦後」と呼びうるフレームというか条件、メンタリティのようなものが変わったのだろう。それは戦時中だとかそういうことではなく、もう少し大きな枠で見たフレームの変化だろう。

個人的には9.11といったような特定のトピックによって戦後が<歴史>となったというわけではない気がする。我々があの時代を<歴史>とみなすことは、単に今の時代の以前に存在した時間であるということだけでなく、何らかの形で語られたものになる―それが<>が付くということ―ということが必要になる。事実の時系列にそった羅列だけではなく、それがどういったものであったのか、現在から見てどのようなものだったのかということを語られ、かつそうした認識が社会全体で共有されることが必要なのだ。

小泉首相以降、政治は戦後的なるものからの脱却を図ろうとしてきた。戦後政治的なスキームで動いてきた社会の構造は、ベタに信じられる「事実」ではなく、<>付きのもの、他に選択肢があったかもしれないナラティブなものであったのだ、という認識が広まった気がする。彼の靖国参拝への姿勢は、それまでの首相が取ってきた姿勢を<歴史>の中へと押しやり、語られる対象とした。「構造改革」のフレーズは、それまでの政治が「改革」されるべきものであり、我々にそれが何であったのかを語らせた。このように戦後的な時間に<>を付け、語るべき対象とする動きがいくつかの場面で同時多発的に起きたような気がする。9.11もその一つであろうが、それが全てではない。グラデーションを描くように、だんだんと我々の生きる時間から戦後的なものが消え、ナラティブなものとなっていった。

ただし<歴史>がナラティブなものであり、社会との間で往復的な再記述を経て形成されるものだ、という認識が人々の間で共有されているかは怪しい。我々は確かに戦後的な時間を<歴史>の中に追いやり、語るべき対象としてきたが、そうした変化に自覚的でありながら意識的にやっているのかというとそうでもないようだ。戦後・戦中の歴史について、未だ「事実性」の奪い合いは起きている。それが歴史の物語性をより確かなものとしているのだが、彼らはどうもベタに事実性を求めているように思われる。

もちろん<歴史>は我々が単に記述するものであるだけでなく、<歴史>もまた我々を記述する。我々が記述した<歴史>は、その記述を通して我々を規定する。我々が何を<歴史>としたのかを見ることによって、我々の現在の社会的なメンタリティを知ることが出来る。

ただ「戦後」なるものが<歴史>の一部となったことはあるにしても、果たしてそれがどのような<歴史>であったのかということについては未だ共有されているものが少ない気がする。ポストモダン的に言えばそれは共有されないまま終わってしまうのかもしれないが。
個人的な興味としては、<歴史>が物語であること、そのナラティブさを共有している人たちと、単なる「事実性」にのみ拠ってベタな見方をする人たちとの間で大きな乖離が起きているように見える。その乖離が現在の社会でいくつかの「問題」として表面化しているように思う。

メタユートピア/ゾーニング/テクノロジー

以下現在書いている原稿用のメモ。

メタユートピアとゾーニング

メタユートピアという言葉がある。ロバート・ノージックによる論が有名であるが、リベラルな社会においては多様な価値が混在しており、人々は同じ価値を認め合うものどうしが自発的な共同体を作り、すみわけを行う。そしてそのことを認める包括的な社会の存在をメタユートピアと呼ぶ。
メタユートピアは、その表象に目を配ればゾーニングと大差なくなる。ゾーニングもまた、社会設計として同じ価値を共有するもの同士の結合とそうでないものの分離を容認する。

「公共性」論

「公共性」論

この本における稲葉のメタユートピア論によれば、両者における決定的な差は、管理人の有無と言えるかもしれない。ユートピアにはいざとなったら社会の全体性―生活世界に対する「システム」―にコミットする「管理人」たちがいる。ところがゾーニングには、どうゾーニングするかを決めるデザイナーはいたとしても、その後の全体性の確保については想定されていない。
稲葉は「公共性」を、生活世界とシステムの間の緊張関係だとしている。個人が自分の認知限界を超えて他者と協調し、不可視なシステムに再帰的にコミットしようとするためのその条件。だとするならば、メタユートピアにはごくわずかながらもそうした公共性を持った人間が存在するが、ゾーニングの思想において公共性を担保するメカニズムは、必ずしも自明ではない。

多様な価値の共存を認めることで、その先どこに行き着くのか。宮台真司はそれを「島宇宙化」と呼び、バラバラの共同体の間に断絶を見出した。一方で東浩紀は(『「公共性」論』における稲葉的解釈を挟めば)公共性の必要性そのものを梯子外しする。彼はシステムへの再帰的なコミットの必要性を疑う。すでにシステムは生活世界を十二分に侵食しており、再帰的ならずとも、「動物」的に生きようとも我々はシステムに「自然に」コミットしているのではないか、と。

宮台は共同体間の断絶を生み出すゾーニングを否定するが、少数のエリートによるシステムへのコミット、それによる社会全体の管理という図式は否定していない。一方で東浩紀ゾーニングをデザイナーが正しいデザインを行えば、という条件付で容認しているとも言える。

メタユートピアか、ゾーニングか。少数者によるシステムへのコミットか、動物によるシステムの回転か。
どちらが良くてどちらが悪いという話をするつもりは、ここではない。ただしどちらにも共通する問題が存在する。

ユートピアの破壊/からの離脱―公共性とテクノロジー

宅間守はユートピアの破壊者であった。小学校というユートピアを、自分の住むユートピアを抜け出し、破壊した。彼の住んでいたユートピアは、少なくとも彼にとっては不全を起こしていた。だが彼はそれをどうにかする手段―ユートピアのシステムへのコミット手段―を持っていなかった。本当に持っていなかったのかどうかはわからなかったが、真っ当な方法で社会に参与することを想定しなかった。代わりに、異なる価値を持つユートピアを、小学校という共同体を破壊する道を選んだ。
彼はユートピアの破壊者であると同時に、ユートピアからの離脱者でもあった。「脱社会的存在」である。この国がメタユートピアなのかゾーニングなのか何なのかはわからないが、宅間守はメタユートピアの管理人による手当てから漏れた者であり、動物として生きるにもまた満足し得ない者であった。

システムへのコミット手段を失い、かつそのことに気づいてしまった者。そうした者はその共同体から抜け出すか、自分の共同体に八つ当たりするか。宅間守はその両方を同時に選択した。だからこそ犯罪史上に名を残す稀有な存在となったのだが、たとえ両方の選択肢を一気にとらずとも、どちらかの方法で、システムへの再帰的なコミット可能性―「公共性」―の喪失を顕す者は多くいる。

こうした人間への手当てを、メタユートピアもゾーニングも、そのままでは解決できない。そこで投入されるもののひとつが、テクノロジーだ。

ただしこの記事のような使い方では、根本的な解決にはもちろんならない。「セキュリティ」は所詮共同体の壁を引き上げて、ユートピアの破壊者の矛先を別の共同体へと変えることしか出来ない。そして共同体内部からそれを破壊しようとするものには対処出来ない。あくまで宅間のように「抜け出し」「破壊する」二つの選択肢を取ったものにしか、効果はない。
必要なのは、「公共性」を喪失した人間への手当てであり、システムへのコミット可能性の提示、ないしは喪失感そのものの消去である。痛みの原因になっている病を治す薬の処方箋を書くのか、痛みそのものを麻酔で消すのか。
この国の社会の流れとしては、麻酔を打つ方向に向かっているように思われる。その一方で、処方箋を求める声も、次第に大きくなっているように見える。少なくともテクノロジーは今のところそのどちらにも大して寄与していないように思われる。痛がっている人間がどこかにいることを、我々に忘れさせようとしているだけだ。

知的情報メールマガジン「αシノドス」読みたい!

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四月から、芹沢一也氏と荻上チキ氏が結託して「αシノドス」というメーリスを立ち上げるらしい。
荻上氏のブログで
「αシノドス」配信開始&トラックバックキャンペーン受付中! - 荻上式BLOG
トラックバックキャンペーンをやっているらしいので、乗ってみた。
総量7万字(削るのかな?)と聞くとかなりボリュームがある気がする。実際どのくらいの感じなのかは分からないが。

彼らが今なぜ思想についてのメーリスを立ち上げようと考えたのか、それはここに書いてある。
Serizawa | Real Estate | Apartment For Rent | Personals | Cheap Airfare at Kazuyaserizawa.com
ここで芹沢氏が

芹沢: 今は「運動」の時代なんですよ。「運動」の時代においては、現場や「運動」の力学が強くなって、どうしても思想や理論は軽くみられがちになる。あるいは従属させられてしまう。

と語っていたのがかなりぐさっときた。自分も最近はどうやったら人が動くのか、という「動員の言葉」に興味があるといろんな場所で発言してきた。そこに通呈するのは、思想や理論を道具的に使って社会を変えるにはどうすれば良いのか、という意識である。

しかし荻上氏がその後語るように

荻上: (中略)しかし、そこで「運動」のために召還された思想的言説がベタに思想として成熟しているかのように捉えてしまうと、ある種のクリシェに陥ってしまったり、ネガティブな帰結を招いたりする可能性がある。

というのもまた真実だろう。

こういった自戒も込めて、「αシノドス」を読ませていただきたいと思う。

「友だち地獄―『空気を読む』世代のサバイバル」

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

2006年度、僕がゼミで御指導いただいた先生の本である。渋谷の紀伊国屋をほっつき歩いていたら見つけたので購入した。*1

授業二つにゼミ一つを取っているので、本の内容自体は割りと聴いていたものと一致するが、ケータイ小説など新しい事例も扱っていて、確認のためにも役に立った。

本書の要旨

「友だち地獄」という煽り気味なタイトル*2の通り、現在の若者の友人関係は希薄化しているのではなく、むしろ友人関係に過剰に没入し、その関係性を維持するのに必死になっている、という内容である。
現在の若者はコミュニケーションを円滑に進めるため、表層的な争いやいざこざを極力回避し、お互いが傷つかないような「優しい関係」を維持している。そしてその「優しい関係」の維持に与しない人間は、「KY」であるとされ、徹底的に嫌悪される。
ではなぜ彼らはそうした「優しい関係」の維持に奔走するのか? 彼らは「純粋なもの」にあこがれる。ひきこもりの人々が使う「純度100%の自分」という言葉に見られるように、自己の中に「純粋でピュアな自分」を求める。それは身体的で、生得的で、本質的な自己への欲求である。しかし自分の身体的で感覚的な欲求に従えば従うほど、他人との違いは際立ってくる。彼らはそうした違いの存在を認め、一方でそれが顕在化しないようにするため、「優しい関係」を維持したがる。高度なコミュニケーション技術である。
彼らが「優しい関係」を維持するのにはもう一つ理由がある。彼らは自分の中に眠る「純粋でピュアな自分」を探しているのだが、それらは自分で探し当てるだけではなく、他人の承認を得ねば見つけたことにはならない。そして身体的、生得的な感覚に基づいて行動する際、人間関係のゆがみによって自分が否定されるようなことがあれば、それは「本当の自分」を否定されることになりかねない。「優しい関係」を維持することは、高度なコミュニケーション技術であると同時に、自己への承認を曲がりなりにも調達する手段でもあるのだ。

こうした主流の論旨の横に、傍流としてケータイ小説や青春小説、ネット自殺などの事例が絡んでくる。様々な事例をスパスパと斬っていく様子は、非常に軽快であり、読むほうも思わずうなづいてしまう。

一方で、若者の行動に対して彼らのメンタリティを分析することで一定の理由を与えているものの、ではなぜ彼らがそのようなメンタリティを持つようになったのか、例えばなぜ彼らは「純粋な自分」を探すようになったのか、という根本的な説明は若干弱い。大澤真幸などの理論を多用してはいるが、それも根源を説明する理論にはなっていない。

「本当の自分」を求めて

「純粋でピュアな本当の自分」がどこかにいるはずだ、という感覚に基づき現代の若者は行動している、という指摘は、速水健朗の「自分探しが止まらない」と共通している。ではなぜ我々は「本当の自分」を探してしまうのか? そして「本当の自分」などというものは現実に存在するのだろうか?
客観的に確認可能な資料で言うのならば、よく挙げられるのが1980年代以降の教育現場における「個性」重視型教育への転換である。ただしそれは経済的な変化に対応するための要請であり、いじめやリストカットを誘発するようなレイヤーにまで踏み込むものではなかったはずである。だとするならば、教育現場のみならずそのほかの領域でもそうした個性への志向を煽られた結果なのだろう。(ここら辺は特に土井先生の前著
「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
に詳しい)
そして問題なのは、個性を煽られることでも自分探しをすることでもなく、煽られた我々が抱く「本当の自分」像と現実の自分に、いかんともしがたいギャップが存在し、そしてそのギャップはいつまでも埋められることがない、ということだ。いつまで経っても見つからない「本当の自分」に振り回されて「優しい関係」の維持に奔走する姿が現実のものだとしたら、その責任は虚構のはずの「本当の自分」をベタに信じ込ませようとした側の人間たちにある。

文化系トークラジオ LIFEの「自分探し」のpart4辺り(2008年3月9日放送「自分探し」part4 (文化系トークラジオ Life))で挙げられていた「自己啓発」などもまた「本当の自分」を探すための手段である。番組中では自己啓発の効果を強調するメールを送ってきていた人もいたが、それは「本当の自分」というにんじんを目の前に垂らされて疾走する馬に過ぎない。もちろんそれで他の馬を追い抜き、レースに勝つ馬もいるだろうが、大抵の馬はにんじんが手に入らぬことに疲れてしまい、走るのをやめるだろう。そこでなお「走れ」というのは、はてな界隈の言葉を使えば「マッチョたれ」ということに他ならない。企業戦士が鞭を打たれて虚構のにんじんを追い求めるのはまだしも、果たしてそれは学生に対しても当てはまる言葉なのだろうか?

もし本当に我々が「本当の自分」などというものを持っているとしたら、それは極めて生得的なものであり、「探す」などということをしなくても勝手に出てくるはずである。にもかかわらずそれを探し続けねばならないということは、やはりそれは虚構であり、虚構であるということを認識した上で上手く取り扱うのがよりよい選択肢だと思う。ただそうしたアイロニカルな姿勢を実際の教育現場に持ち込むことは難しい。難しいが、しかし本書の内容が事実ならば、それを乗り越えなければ問題は今後もより拡大するだけになるだろう。

*1:ところでうちの大学の一番大きな書籍部にはなぜかこの本置いてなかったんだけど。どうなってんの?

*2:土井先生にしちゃ煽るなぁと思ったら本人が付けたのではないらしい

「表現の自由」というタームは耐用年数を過ぎた気がする。

しばらくじっくりPCに向き合う時間が無かったので、今更児童ポルノ関連の議論を見返してみた。*1

その中で気になったのが、何箇所かブログ上で散見した「欲望は裁けない」という命題である。確かにある種の性的な欲望を持ったことが外部に発覚したとして、欲望そのものを罪にすることは出来ない。少なくとも現行の制度では。
しかしこの命題が自明であるからといって、欲望の「管理」もまた不可能であるとは思えない。欲望そのものを罪にすることはできなくとも、もう一段階クッションを置いた形で、人間の性的な欲望を管理しようという試みは、既に幾度も歴史の中で繰り返されてきた。欲望の対象物を保護したり、欲望の発露を制限したりというかたちで国家は欲望に規律訓練を施してきた。欲望は、その外堀を次々に埋められた結果、「規範」という縄によってきつく縛られている。こうした歴史を踏まえるならば、「欲望は裁けない」という命題に乗っかり泰然としている間にも、しっかりと規律訓練は進むだろう。

こうした「欲望の管理」は、当然ながら人間の「自由」とトレードオフな関係にある。女子高生の身体を金で買って欲望を満たす「自由」はない。では女子高生に「見える」性的な画像を所持する自由は? 「管理」とは、こうした曖昧な部分に強引に境界線を引き、善と悪の選別を行う作業でもある。
当然こうした動きに対しては、ほぼ毎回「表現の自由」というタームが付いて回る。過去のわいせつ物に関する議論の中でも幾度も登場してきた。ところが、もはやこの国において「表現の自由」というタームはもはや耐用年数を過ぎてしまった感がある。この国で人々があらゆる利害を通り越して団結できる唯一の関心事は、「セキュリティ」であり、このタームの前には今や全ての論理が硬直する時代となった。*2そして我々が現在享受する「自由」もまた、この「セキュリティ」の論理の中で認められたものだけになっている。そのような中で、「表現の自由」というタームは、セキュリティのロジックの前にはおそらく通用しないだろう。もちろん表現の自由が守られることは大事だが、それの持つ論理的な強さ、つまり人間を動員するための「政治の言葉」としてはもはや力を失っているように思われる。

もし性的な欲望の管理に対抗する手段が必要だとするならば*3、我々は「表現の自由」というタームに代わる言葉を探す必要がある。それが何なのか、ということを僕はここではっきりと提示する能力は持たないが、まずこうした意識を出発点にしないといけないのではないか。

*1:細かくいうと主に問題になっているのは児童ポルノの単純所持の禁止と準児童ポルノという概念についてのようだが、ここではすこし問題意識を広げて議論する。

*2:身体の保護という私的なレイヤーの問題が、公的なレイヤーの問題に立ち上ってくるというのは決して新しい話ではない。だが少なくとも今までは私的なセキュリティの問題は「前提」とされており、社会がセキュリティを公的レベルの問題として語るということは、それを「前提」だと認識しなくなったということだ。それがはっきりと目に見える形になったのが911である。

*3:そもそもこの条件を満たすのが難しいかもしれないけれど。