絶倫ファクトリー

生産性が高い

公共圏か動物か―思想地図における白田―東の議論を巡って

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

思想地図〈vol.1〉特集・日本 (NHKブックス別巻)

思想地図を読み進めている。東浩紀北田暁大、萱野稔人の鼎談と白田秀彰による論文を読んだのだが、白田と、彼に執筆を依頼した東との間で見識の一致している面もあり、また一見逆に思われる点もあったりしたので非常に面白かった。

簡単に彼らの議論をまとめると、私的領域という歯車と公的領域という歯車があったとき、それらを回すには間に何かのギアがあった方がいいと言うのが白田で、ギアを噛ませず二つがバラバラに、暴走しない程度にうまいこと回り続けるシステムをつくろうよ、というのが東である。以下、両者のそうした違いについて細かく見ていく。

両者の共通点と相違点―断念された主体と公共性

白田は論文「共和制は可能か」の中で、現在の日本を古典的寡頭共和制であるとし、近代的民主共和制への移行可能性を論じている。日本は国家の運営を担う層とその支配に預かる層の間に断絶があり、これが果たして国民が自覚的に支配機構へコミットする体制へと移れるのか、という問題意識である。
結論から言うと白田はそのようなことは不可能だとしている。彼は民主共和制への条件を二つ提示している。一つは支配機構に関わる公的領域(res publica)が、守護・維持に値するということを事実として国民が受けとめていること、そして第二にそのためには公的領域に対して貢献するのだという信念が存在すること。日本においては、少なくとも日本という国家体制に対しては国民はそのような「物語」を事実としては到底受け止めていないだろうとして、白田は日本の民主共和制への移行を否定している。
自らを「主体」として自覚し、積極的にこの国の公的領域にコミットしていこうという姿勢が日本国民にはもはや無い、という認識に関しては白田と東も一致している。社会を所与の「自然」として捉え、そこへの積極的なコミットを拒否するのはまさに「動物」的ではある。しかしその後の方向性については両者は大きく異なっている。東は岩井克人の国家観を参照し、国を会社としたときにlこれまではその保有者を従業員として見てきたが、これからは会社の持ち主は株主だ、という方向に切り替えていく必要があるとしている。従業員はその会社に所属していることを自覚し、積極的に会社の運営にコミットする必要があるが、株主はそうではない。所属を自覚することも、仲間と協調して公共的な側面にコミットする必要も無い。国家に話を戻せば、ナショナリズムだ討議的公共性だというめんどくさい話は抜きにして、とりあえず損得勘定に基づいたドライな関係で国のあり方にコミットしとけば良いじゃないか、というのが東の見識である。
一方白田はそれとはまた異なる形で公共性の確立を目指す。国家という公的領域へのコミットは皆興味が無いかもしれないが、そこに国家ではない、別のものを代入すれば公的領域の復活は果たせるのではないかとしている。

「……我々現在の日本人が近代国家制度としての日本国に対して、もはや積極的に関与できないとしても、現在の我々の生活の安寧と幸福の源泉に対してならば、我々は積極的に貢献しうるのではないだろうか。」*1

巨大化、複雑化したが故に自分の私的な利益との関係性が不透明になった個人―国家間では、その運営に携わるべく積極的に公的領域にコミットするのは難しい。そうではなく、個人と公的領域の関係性が見通せる規模で公的領域を立ち上げれば、私的利益は公的領域の維持によって担保されているという認識を持つことができるのではないか、ということである。そもそも個人が「主体」として公的領域にコミットすることを断念している東と、規模や環境の調節によってコミット可能な公共性を立ち上げようという白田の間には、大きな差が見られる。ローティアンを標榜する東は、公的問題と私的問題を分けることを求め、個人が私的な欲望と公的領域を接続させることを警戒し、北田・萱野との鼎談の中でこう述べている。

「私的な欲望は自由で、公的な議論はとりあえずそれとは関係ないという区別が、この国ではまだ出来ていない。僕はこれを分けるべきだと思う。それに対して一君万民的な『草の根ナショナリズム』を警戒してしまうのは、それが、ひとりひとりの私的な欲望を変えることによって、つまり公共性を私的に欲する人間を増やすことで公共圏を立ち上げようというプロジェクトに見えるからです」*2

もちろん白田は国家に変わる新しい公共圏の立ち上げに、ナショナリズムを持ち出そうとはしていない。だが、それは表層的な手段において明確な差異が見られない、というだけであり根本的な発想においてはこのような差が見られる。

議論の収束点―静的から動的へ

ただし東の議論を細かく見ていくと、この差異は解消不可能な深い断絶というわけでもないように見える。東が警戒するのは、私的な欲望と公的領域を一足飛びに直結させることだ。そうした接続をしている人々の例として彼は「ぷちナショ」や「赤木智弘」を挙げる。彼らは東からすれば私的な問題をそのまま直接公的領域に持ち込んでいる。
そして白田も恐らくそうした人々を肯定することは無いだろう。白田の議論は、個人が所属する私的領域という歯車と社会のコントロールに関わる公的領域という歯車を結ぶ「ギア」を、何に見出すのかという点にかかっている。国家はもはやギアにはなりえない。何か別のものをギアに入れる必要がある。本論文においてはインターネットにその可能性を見出している。そして彼はギアを使わずに私的領域と公的領域を直に接着させることは、想定していないはずである。二つが接触せず、分断した状態を彼は寡頭制共和制としており、民主的共和制からは程遠い、としている。白田の選択肢は、ギアの無い、私的領域という歯車と公的領域という歯車が別々に回転する状態か、ギアによって二つの歯車がかみ合い回転する状態か、その二つである。
東から見れば、そうした白田の考えはぷちナショ的に私的領域と公的領域をショートサーキットさせる者への想定が足りない、ナイーヴなものに見えるかもしれない。また白田から見れば東の動物化に対する消極的肯定は、ギアも無くまた歯車をショートサーキットさせることもなく両方が上手く回り続け、かつ両方とも暴走しないようなシステムを用意しろということになり、それはそれで虫が良すぎる、現実味に欠ける議論になるだろう。
東も指摘しているが、私的領域と公的領域がかみ合うことなくバラバラに、かつ上手い具合に回転してきたのは実はこれまでの日本であり、白田もそれを寡頭共和制と呼び現在の日本の状況であるとしている。だとすれば、何も時間と金を費やしてこのような議論をする必要は無く、二人とも現状万歳の全肯定でいけばいいのだが、そうもいかないらしい。東も白田も、この国の現状や今後に何らかの問題があり、変える必要があると考えているのだろう。おそらく、現状を支えるシステムがもうもたない、というのが彼らだけでなく多くの人々が共有するイメージなのだろう。

個人的な感想としては、現状に対する認識は静的なものであり、今後の社会をどうするか、何をどう動かせばいいのかと言う話は動的なものである。それらの議論を接着させるには慎重というか厳密な議論の摺り寄せが必要であり、ここに挙げられているような議論だけではもちろん不十分だろう、としか言いようが無い。ただ以前のエントリでも書いたが、必ずしも皆が皆動物になれるわけではないなく、東はそうした人々が私的領域と公的領域をショートサーキットさせる危険性を指摘しているが、そもそもそういう発想にすらならず、私的領域を自ら捨てる、壊す者の存在も指摘しておかねばならない。それは歯車がショートサーキットするのではなく、歯車自体が自壊する可能性を含んでいる、ということだ。もちろん白田のように何らかのギアを用意したところでそうした人間が現れる可能性はあるものの、どちらかといえばギアを用意したほうが上手くいけばそうした自壊可能性は下がる気がする。白田は私的領域の離脱/破壊者をもしかしたら救える射程を持つのに対し、東の理論はそうした射程をそもそももたないからだ。*3

*1:p.390

*2:p.270

*3:ただし白田の想定とは逆に、インターネットは今のところ最も手軽に私的領域と公的領域をショートサーキットさせるツールになっている気はする。