絶倫ファクトリー

生産性が高い

希望格差社会




さて読み終わりました希望格差社会

感想としては。



「下流社会」のネタ本。以上。



ってことで終わらせたいんですがいいですか?いややってることは下流社会よりもう一個メタレベルが上のことだと思うんだけど。

要は日本の構造を「希望」を媒介にしたシステム理論で説明しようとしてるんだね。現在の二極化(と思われる状況)を、「希望」が失われ荒唐無稽な「夢」がはびこることで、人々が気力を失っていくという。大筋はそんなもんで、細かい説明は教育のパイプラインとかリスクの普遍化とかで肉付けしていくわけですが。

しかしこの本、どうもやっぱり読後感にすごーくいやな感触が残るのですよ。しかも「下流社会」のときとはまったく別の感触が。

この本、下流社会と同じく、日本の現状をデータを交え分析して警鐘をならしまくった後、ちょびっとだけ解決方法を提示して終わるのです。分析に対する解決方法の提示の割合は極端に少ない。

だけど下流社会の場合、まぁ著者がマーケティング業なんで、階層化がなくなったら困るような職業ということで納得はできるんですが。

この著者は一応社会学者で、階層化が無くなったらなくなったで別に困るような職業でもない気がするのですよ。だから解決方法についてはもっと抽象的にせよ具体的にせよページをさいてもいい気がする。

実はこの本、ページの節々から漏れ出してくる「雰囲気」みたいなものを読み取ると、読み終わったあと最後のページのその先に実は作者が言いたかった、でもいえなかった解決方法が見えてくるような気がするのです。

著者は希望を媒介にした社会システム理論を用いていると説明しました。昔は頑張れば報われるという「希望」があった、今は頑張ってもどうしようもない、そういう無力感が若者の間に流れている。それは日本の社会が安定性を失い、リスクが普遍化したからだと。安定した年功序列、努力に応じた成果、そこからはみ出なければリスクには遭遇しなかったのに、もはやリスクとそうでない部分の差は消えてしまったと。リスクに対処するために何かしようにも、それさえリスクになってしまうと。

問題なのは、このシステムが「希望」という、いわば傾きのプラスマイナスそのものに注目しすぎていることです。現状がどんな現状なのか、努力して報われたその先にある未来がどんな未来なのか、そういった絶対的な状況に注目しているのではなく、その間の「努力」して「報われる」こと自体が重要なのです。

要は、「努力」して「報われる」なら現状がどうであろうが未来がどうであろうが、システム論的には同等なのです。今の経済状況からさらにリッチな状況になることも、明日の食べ物にも困る状況から何とか日々の生活だけは維持できる状況になることも、「希望」という媒介を通せばシステム的には同等。

そして。

戦争状態から平和な日々の生活を取り戻すことも、そこに希望があれば同等。

つまりですね。

著者の希望システム論的に言えば、「希望」の生成が行われればある程度問題解決されるわけで。

そして戦争は、「勝利への努力」によって「平和」という報いを、あるいは勝利そのものを報いにすることによって膨大な量の「希望」を生成できます。

それは経済的により豊かな生活とか、そういった高いレベルの希望ではなく、平和な生活という、本当に最低限の生活を希望対象とした、レベルの低い希望です。しかしそれも「希望」に変わりはなく、かつ国を一つにまとめあげることができる。

こうして、著者が本当に言いたかったのは「だから、戦争しよ」という結末じゃないかという危惧が生まれるわけなんですが。

サルトルの例(パリの街がもっとも輝いていたのはナチス占領下の時代だった。みんなレジスタンスによって平和を取り戻せる希望に満ちていたからだ、という例)を持ち出したり、他にも「おやこれは・・・?」と思う節もあるわけで。

まぁ深読みのしすぎだとは思います。というかそうじゃなきゃいけないと思うんですが。

ただ著者の希望システム論は、上記のように全体主義によって希望の生成・回収装置にされてしまい、全体主義の人民動員ツールになりかねません。

宮台真司が近頃政治の世界にコミットし、かつ「あえて」亜細亜主義だの天皇主義だの唱えているのも、とりあえず社会から離脱したやつらを入り口は何でも良いから社会にコミットさせるためらしいですが、やってることは「あえて」ない人にしてみれば右翼と変わらない。

同じように、「希望」を与えるという大義名分の下、誰かが「あえて」全体主義を持ち込んできたら、少なくとも一般の人間はそれを却下するための理論武装が足りないわけで。システム論的には間違っちゃいないんだから。


なんだかんだで最後は結局右と左のお話なりそうなのでやめますが。システム論てわりと循環の流れそのものを対象にするーつまり絶対的な立ち位置ではなく立ち位置の変化を問題にするので、とんでもない立ち位置にいても変化がきちんとシステム論敵に正しければOKだったりしちゃうんです。

だから世の中でシステム論ぽいものに遭遇したらあんまり簡単に信じず、応用を考えてちょっと疑ってみるのもいいかもしれません。