絶倫ファクトリー

生産性が高い

日本における監視カメラとゲーテッド・コミュニティの可能性

「東京から考える」は現在僕が書いているゼミ論の観点から見てもなかなか面白いので引き続いて言及してみる。

都市とセキュリティについての話は近年色んなところで見かけるのだけれど、そのときにほぼ必ずと言っていいほど出てくるのが監視カメラとゲーテッド・コミュニティの話。

監視カメラは、一部のサヨクな方々が騒ぐような国家権力の陰謀論につなげられるような代物ではもはやなくなっている。確かに酒井隆史とかが気にしてたような、空港や港と、繁華街に設置されてる監視カメラは権力の延長線上と言っていいかもしれない。けれどそうじゃなく、今増殖しているのは民間のセキュリティ会社や一般市民が自分の家の前に取り付けたりするプライベートな監視カメラなのだ。これは住民が自ら望んで設置するものがほとんどで、国家権力うんぬんの話からは位相の違う話だ。
で、こうした監視カメラとゲーティッド・コミュニティはセキュリティのタイプが違うと思われる。一般的にいえば、監視カメラはフーコー的でゲーテッド・コミュニティドゥルーズ的。規律訓練か環境管理の違いがあって、ゲーテッド・コミュニティの資料を見ると二つがそこまで密接に関係しているというわけではなさそうだ。もちろんゲーテッド・コミュニティの中に監視カメラはあるのだけれど、それはゲーテッド・コミュニティの出入り口にあるくらいなもので、相互依存的なシステムというところまでは至っていない。
ただこれはあくまでサンプルがアメリカの話で、日本の場合は少し事情が変わってくるんじゃないかと「東京から考える」を読んで思った。
というのも、監視カメラってのは実は矛盾しかねない二つの性質を持っていて、一つは監視カメラの姿をもろに露出させることでその存在を示し、犯罪を抑制させる効果。ところが監視カメラの存在が犯罪(を行おうとしている)者に気付かれると、今度は監視カメラの届かないところで、つまり他に「死角」を見つけて犯罪が行われるようになる。これが第二の、犯罪の物理的な位置の変化を強制する効果。
これが何を意味するかというと、普通一般的な家に取り付けられるプライベートカメラはなるべく街路や隣人のプライバシーを犯さないために自分の家の敷地のみが対象になるように配慮している。ところが上記のような監視カメラの性質からすると、それはただ自分の家から犯罪を遠ざけるだけで、標的が自分の家ではなく隣の家に変わるだけかもしれない。国民の全員が家に監視カメラを設置しているわけじゃない以上、犯罪者にとって「犯罪のやりにくさ」というのは相対的なものである。周囲の家で一軒だけばっちりプライベートな監視カメラを設置しても、それは設置していない周囲の家=「死角」のセキュリティを相対的に下げる可能性がある。一種のジレンマだ。
こうした事情からか知らないが、「東京から考える」に面白い事例が載っている。世田谷区の成城は、地域ぐるみで監視カメラを導入し、「55軒で100台くらいほどが動いている」らしい。これは個々の家ではなく街路を監視対象としている。こうすることで街から監視カメラの「死角」を消して先のジレンマを解消し、地域全体としてのセキュリティをあげることができる。
つまり監視カメラを利用する上で最も効率がいいのは、監視カメラの存在をまず前提とし、その「死角」を作らないような都市設計を行ったうえで各個人の家を建築することだ。ただこれを街一つ作る段階からはじめようとしても難しいので、現実的なのは集合住宅地を作るときにこうした手法を取り入れることだろうか。
おそらくこれが日本におけるゲーティッド・コミュニティの可能性だろう。語源となった「Gate」はもはやそこにはなく、監視カメラの視線が隅々まで行き届いた空間が広がる。そこでは外部との区切りは門や壁ではなく、監視カメラの有効区域なのかそれとも「圏外」なのかという見えない壁がある。ただこれはコミュニティ内部のセキュリティは確かに担保されても、コミュニティの外、個々のコミュニティ同士で歴然としたセキュリティの格差を生み出す。犯罪者はゲーティッド・コミュニティの外に狩場を移し、結局監視カメラのジレンマからは逃げられない。安全・安心な街づくりとは言うものの、根本的な解決手段は見出せない気がする。地域の分断化を呼び起こす可能性がますます高くなる。

かといってもっと根本的にハード面で解決しようとすると、監視カメラをパノプティコン的に使うというより、通行人をいくつかレイヤーで分析して犯罪者の「平均値」に近いような恰好の人間をつまみ出すという、ラディカルかつ暴力的な使用方法に行き着きかねない。結局最後は人々が持っている「体感治安の悪化」という「不安」をどうにかして解除していく必要があるわけだ。社会学の担う役割はそこらへん急務だと思うのだけど、多分マスメディアは相手にしてくれない。商売にならないから。不安とリスクを詰め込んだほうが金になるのだ。