絶倫ファクトリー

生産性が高い

「差別言論」

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

差別原論―“わたし”のなかの権力とつきあう (平凡社新書)

「差別の社会学」の好井先生の本。
なかなか面白い。
好井先生はエスノメソドロジーの方だが、差別問題を扱いながらも、決して「差別はよくない!」とただ声高に叫ぶ人ではない。
むしろ「差別はなくなさくてはいけないが、誰もが通る可能性のある、人生の小島のようなものだ」という趣旨のことを述べている。
そして問題なのは、差別そのものだけではなく、差別を自分の世界から切り離し、「よその世界」のものにしてしまうことだ。
差別をしたという事実があったとして、自分は何故差別をしたのか、何故それが差別と取られたのかと立ち止まって考えることが重要である。
差別と言う問題を考えるとき、「差別するもの―されるもの」という二項対立を持ち込むと、決して自分はそのどちらにも属さない「傍観者」になってしまう。それではダメだ、と好井先生は言う。決して「よその世界」に差別問題を追いやらず、自分の問題としてひきつけることが大事なのだ、と。


で、少し考えたのだが、差別を自分の問題として「ひきつける」ないしは「はいりこむ」過程に、エスノメソドロジーの基本となる「語り」はとても重要な要素だろう。差別問題の当事者による「語り」なき差別問題は、生きた痕跡が消された抽象的な「カテゴリ」になってしまう。部落差別なら部落差別を受けた人、差別をした人、そうした人々の「語り」があってこそ、差別問題は他の人間も自分の世界にひきつけることができる。そうした「語り」がなくなると、一般的な知識・概念(時に偏見)を寄せ集めた「カテゴリ」に成り下がる。「部落差別」という言葉に含まれる一般的な知識や概念、偏見が混ざり、自分達の世界と切り離された言葉として、我々は部落差別の問題を「カテゴリ」を使って語り、傍観者の世界に引きこもってしまう。


またこんなくだりがある。

……例えばネット上で、従来であれば抑制されていたはずのさまざまな差別表現が、人を誹謗し中傷し非難する道具として”息を吹き返している”……しかし今は差別を考える枠組みが緩み、従来守られていた規範も金属疲労を起こしているように思う。*1

「金属疲労」とは言いえて妙だな、と思う。確かに最近は部落差別や障害者団体の差別糾弾の活動などは耳にしない。もちろん活動はしているのだろうが、表立ってマスメディアに出てくるほどではないのだろうか。それどころか部落解放運動については、不祥事があったりとむしろ叩かれるポジションにすらある。
この「金属疲労」は、一つには「語り」の減少も一因ではないか。(と言うかどちらが先なのかは分からないが)「語り」なき差別問題はリアリティを失い、「カテゴリ」化を許す。「カテゴリ」になった差別は容易にその知識・概念に後から偏見や間違った知識を注入することが可能になるし、文脈によって左右されることもある。
従軍慰安婦の問題なんかにも言えるかもしれないが、当事者の「語り」は決して統計的な面においては有意味ではない。ある「カテゴリ」に属す(ことにされた)人のうち、「語り」を持つ当事者が一人や二人であったとしたら、当然統計学的には無視してしまって良い数になる。たとえその人たちが「差別/被害を受けた」と言っても、数字の上から見れば誤差みたいなもんである。だがそこには数字に表れないリアリティがあり、そのリアリティが問題を我々自身にひきつけてくれるものだとすれば、決して無視して良いものではないだろう。

*1:本書pp185-186