絶倫ファクトリー

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前回の西成地区暴動のエントリについての訂正

前回のエントリについて。コメント欄でのyas-igarashiさんとのやり取りを見ていただけると分かるが、「追記」として書いた部分

追記:ちなみに僕はこの件について「警察の暴力性」とかを批判するのはナイーブだと思っている。確かに警察の対応は横暴だが、それが警察というものだ。騒ぎがある(と思えば)彼らはその圧倒的な力で介入する。それが警察の本来の姿であり、暴力の独占装置としての原理でもある。そしてその非対称性を指摘しても批判にはなりこそすれ力を持たなかったのはこの国の左翼が証明してきた。大事なのは彼らが介入するようなきっかけを作らないことだ。

この文章を撤回する。

僕は今回の暴動を西成地区の日常と分けて考えていた。けれどもう一度ウェブに上がった関係者の話や報道を見るにつけ、それは端的な間違いであったことがよく分かった。この地区における警察と労働者の間の対立は、それが顕在/非顕在を問わずもはや日常化しており*1、どちらが先とも言えない暴力の循環が空間に渦巻いている。両者の融合しがたい、しかし一方で分かち難い関係は、アノミーの日常化という転倒を引き起こしているようだ。だとするならば、先の暴動は決してこの地区の日常と切り離せるものではなく、日常の延長線上にある。そしてそこで警察の暴力性への批判をやめることは、日常からの撤退を意味する。労働者にとっては文字通りの死を、警察にとっても超えてはならぬ一線を越えるきっかけになりうる。

これは陳腐な相対主義ではない。警察も労働者もどっちもどっち、で片付く話ではない。警察への抵抗は目的ではなく出発点である。この例外状態とも言うべき転倒した空間をまず認識しないと、あらゆる「正論」は空論になってしまう。もちろん今回の暴動について記事を書いている方々の多くにとって、そんなことは当たり前だったのだろうが、僕はその当たり前の認識が欠落していた。*2

警察が悪い、労働者が悪い、どっちも悪い、暴力は良くない。こうした一般的な位相の規範は、絶え間ざる暴力の循環という、中心なき中心に向かい、消失する。id:sumita-mの言葉がこのことを簡潔に表していた。

暴力を議論する際に最も避けなければいけないのは、安手の<道徳>に拠りつつ議論を進めるということだろう。これは<道徳>を損ねてしまうし、同時に<暴力>の根にある<生命>や<自然>を損ねてしまうことになる。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080622/1214148581

この「善悪の彼岸」に相対して、ではどうすれば良いのか。どこが終わりなのかも分からぬ「出発点」に立つと、うっかり安易なニヒリズムに走ってしまいそうになる。けれどそれが一番、当事者にとって残酷なことなのだろう。僕がここでグダグダと偉そうなことを書いたところで人一人も助けられないが、それでも何も言わず何も見ず、背中を向けることは、彼らの立つ「存在の地平」を閉ざすことになる。

*1:例えば、ちりばめられた監視カメラ、要塞と評される警察署。

*2:同時に、労働者の警察への抵抗はマルキシズム的な「闘争」ではないとも言えるだろう。闘争の先には何か得るものがあるかもしれない。けれど彼らに得るものはない。それは転倒した日常の保持なのだから。