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ゴッサムの市民たち―『ダーク・ナイト』

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「まだやってたの!」「まだ見てなかったの!」という声に一切耳をふさぎながらこのエントリを書いている。公開終了直前につれて行ってくれた友人に感謝する。

内容についてはもう散々いろんなところで書かれているので……といいたいけれどやっぱり書きたい。いや、面白かったのだもの。

悪なる狂気ジョーカー、善なる狂気のバットマン

善/悪、理性/狂気の二つの対立軸が交差し、四つのアクターを形成している。善なる理性の警察・司法と、善なる狂気のバットマン。悪なる理性のマフィアと、悪なる凶器のジョーカー。そしてこれらはお互いそれぞれに強烈に対立しているように見えて、実は不可分という両義的な存在である。この両義性が物語全体を通呈するテーマなのだが、この映画の綺麗なところは、劇中に登場する個別のイベントが、その全体の構造とどれも相似形であることだ。バットマンやデントの選択、ジョーカーの罠など、個別のイベントにもそれぞれ両義性が見られる。そしてそれらが次々にダイナミックに展開する。この迫力はすごかった。150分とか全然短いですよ。

ただヒース演じるジョーカーの「悪なる狂気」、つまり悪のための悪という性質に近づきすぎると、ちょっと面白くないと言うか、そのように抽象化させてしまうと別にそういったキャラクターは別段珍しいものではない。超人的な正義と超人的な悪の両義性、悪による「お前も俺たちと一緒だろう?」という正義へのささやきは、しかしそれこそウルトラマンに代表される日本の特撮ヒーローは以前からやってきたわけで、となると後はやっぱりヒースすごかったね話に終始してしまい、それはそれで良いのだけれどそれだけじゃつまらない。

ゴッサムの市民―例外状態の素地

この映画のテーマは両義性。二項が対立しながらもお互いに不可分という状態がある一方で、悪は正義にそのどちらかを選ばせようとする。ここで暴かれるのは二項対立という設定軸そのものの欺瞞である。デントはいう。「コインは公平だ。表か裏だ。」そして彼は他人の命をコインの裏表に賭ける。確かに常にコインは誰に対しても裏か表か1/2の確立を提示する。だがそれが、そもそも選択肢がその二つしかないことの恣意性を隠蔽した欺瞞の上に成り立つ公平さであることは言うまでも無い。ゆえにその状況、コインの裏表に命が賭けられているという状況を作り出した人間が、圧倒的優位に立つ。では何故そうした状況、両義的な二項の対立がどちらか一方選ばれてしまうような「例外状態」が作られるのか? 

それは物語の舞台がゴッサムシティであるからであり、そこにいる「市民」の存在ゆえである。ゴッサムシティの住人は常に恐怖に煽られ、また恐怖を煽る。バットマンにマスクを脱げと言い、返す刀で脱ぐなと言う。自分の身を守るためなら数の暴力でもって利己的な行動を正当化する。彼らの利己的な行動は、「力への迎合」という秩序を維持したまま、従来の力=善なる正義を失効させ、決断主義者の入り込む余地=例外状態を発生させる。

あの弱く、煽動され煽動する911アメリカ的市民こそ、この物語が成立する基礎であり、素地であり、主人公であると思う。この映画、アメリカでの評判が知りたい。いわゆる批評家的な評価ではなく、一市民が見た感想を。アメリカ人がこれを見たら、その観客はちょっと、というかかなりむかっとこないといけないと思うのだけれど。

あと囚人のジレンマをまんまベタに囚人使ってるところとかはちょっと笑った。演出も、後期デントが普段はどちらか一方の顔しか移しておらず、顔の両面が映るときは常にコイントスとセットになっている(だったと思う)とか、他にも色々細かいところがきちんと両義性という全体構造にそって作られており、よく出来てるなと感心させられた。見逃さずに良かったなと思う映画だった。