『サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む』
サブカル・ニッポンの新自由主義―既得権批判が若者を追い込む (ちくま新書)
- 作者: 鈴木謙介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/10
- メディア: 新書
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どちらかというと、「社会学者・鈴木謙介」の著書というより、「Life パーソナリティ Charlie」の著書と言った方がいいのかもしれない。ある程度社会科学的な分析を交えながらも、最終的に彼が目指すのは極めて実存的な問題へのコミットである。彼の著書にはそういう面が多分にあるが、本書はそうした傾向が最初から最後まで通呈している。
本書の概要―既得権批判者が自らを窮地に追い込む理由
本書で一貫して議論されるのは、「既得権批判」という、いまや右も左も大好きなキーワードとなったロジックが、時にその批判する側を更なる窮地へと追い込んでしまう、逆説的な状況である。
現代日本において、既得権批判はさまざまな領域で火を噴いている。今や団塊の世代はその十字架を背負う代表格であるし、またネット論壇によるマスメディアへのカウンター、著作権問題、などなど。
中でも目に付くのが、ロスジェネ論壇に代表されるような格差社会批判のケースである。格差社会の元凶は、能力も大したこと無いのに「正社員」という安定のパイを独占する「既得権」がのさばっているからであり、彼らを打ち倒さねばならない、というロジックだ。そして奇妙なことに、「負け組」からだけでなく、「勝ち組」の方からもそうした声が聞こえるのだ。何故か?
いわゆる「ウィンプ」の既得権批判は、「その「安定」というパイはとても美味しいものだ、ゆえにお前が独占する権利はどこにもない。俺にもよこせ。」というロジックである。一方「マッチョ」による既得権批判は、「その「安定」というパイは毒でしかない。自由な競争を阻害する。さっさと捨てろ。」このように、安定的な結果の平等を求める陣営からも、流動的な機会の平等を求める陣営からも「安定」のパイを独占しているとされる既得権者たちは批判される。
この一見矛盾した構図から呼び出され、補完・強化されたのが、現在の日本社会を覆う「新自由主義」であると鈴木は指摘する。彼は「新自由主義」を厳密な経済思想の用語としてではなく、人々の価値判断のモードの一つとして取り上げている。社会的な立場の高低を決定する審級が「個人の能力」に一元化され、個人が「自己責任」の名のもとあらゆる選択と決定を要請される。もちろんそうした環境の中で勝ち残れる人もいるが、負ける人もいる。そしてその負けた人の中には、本来ならそうした状況を批判していた立場なのに、「既得権批判」のロジックに乗って逆に自分を窮地に追い込むような新自由主義的環境を称揚してしまった者も含まれる。
鈴木はこうした「新自由主義」の問題点を、一見個人の自由を最大化させているように見えて、実は「これ以外の生き方はありえない」という宿命論的な諦念を呼び出すところにあると述べている。失敗したのは、自分の能力のせいだから。成功したのは、自分の能力のおかげだから。あらゆる選択と決定が個人に対して跳ね返り、最終的にそれはあたかも最初からそうであったかのような、変えられなかったものであるかのような錯覚を生じさせる。結果、「既得権批判」をしていたものが、その帰結として招いた新自由主義的な価値判断のモードによって、窮地に立たされる。
オルタナティブか、相似形か―サブカル・コミュニティ
彼らが批判する既得権、つまり「安定」という名のパイについて、実際のところはそうした「安定」が以前から「安定」ではなくなっているという分析を行う。ただ問題になっているのはそうした実証的なレイヤーというより、人々が社会を生きる際の価値判断のレイヤーである。
鈴木は「新自由主義」という価値判断のモードが高度消費社会のロジックに裏打ちされていることを指摘し、そうしたロジックが要請する「個性的な生き方・クリエイティブな生活」に人々の価値観が一元化されることを問題視する。逆に彼はそうした次元ではない審級において自分の承認を得られるようなコミュニティを、オルタナティブとして肯定的に評価する。いわゆる「ジモト」感覚をベースに築かれた人間関係や、ニコ動的なゆるい関係性である。そうした社会の傍流にあるような「サブカル」のモードによって、価値判断の審級の一元化を防げるのでは、としている。
ただ個人的には、そうした「サブカル」ですら一種の高度消費社会のロジックに絡め取られていることに目をつぶる事は出来ないのでは、と思う。サブカルチャーによって承認されたライフスタイルが、新自由主義的な価値判断を一方で延命させ続けている現状もある。難波の『族の系譜学』など、「ジモト」的コミュニティを支えるサブカルチャーもまた、極めて消費社会的なロジックで機能していることは以前から指摘されてきた。新自由主義的なモードによって社会の主流から「撤退させられた」者が、サブカルチャーを通じた承認によって生きる。しかしそのサブカルチャーをベースにしたライフスタイルもまた、衣服・音楽・遊びのコードを通じてヒエラルキーが作られる。それを支えるのが「より個性的な自分」をフックに展開する高度消費社会的なロジックであるのはいうまでもない。それはオルタナティブに見えて、実は新自由主義的なモードの相似形である可能性がある。
無論、鈴木はそうしたカウンターを織り込み済みで、敢えてこのような議論をしているのだろう。「ワースト」を叩き、オルタナティブを提示しない理想主義者の裏返し達が、結果的にその「ワースト」を固定化する状況を見てきた彼としては、「ベスト」ではないが「ワースト」ではない、「ベター」な選択肢を提示することの可能性に軸を置いているのだろう。果たしてそれが本当に「ベター」であるのかどうか。今また世界的な状況は変わりつつある。その答えはそう遠くない将来出るような気がする。もちろん時既に遅し、であるかもしれないけれど